明暦二年(一六五六)、津軽弘前藩主四代信政の襲封(しゅうほう)に伴い、その後見役として発足した黒石津軽家は、本家名代(ほんけみょうだい)という機能を有したことにより、弘前藩「副藩主(ふくはんしゅ)」という立場を得た。名代を命じられた直接的理由は、弘前藩主が病気等の理由で身動きのとれない時に依頼するのであり、黒石藩成立後、天保四年(一八三三)十月の名代を除いて、すべて弘前藩主が江戸在府中に名代を勤めており、黒石藩主は在国を命じられた(資料近世2No.一〇五・一〇六)。これは藩主名代としての役割を、明確に位置づけるものであった。松前警備や沿岸警備の任務を負っていたのであって、当然ながら不測の事態においては軍事指揮権を含んでいたと考えられ、大きな意義を有していた。ただし、安政二年の例のように、弘前藩主名代としての第一優先順位は津軽本家の世子(せいし)であり、それが期待できない場合の名代であった。
後見役から「副藩主」へという立場の変化は、津軽弘前藩と黒石藩の一体化が、図られていったということにもなろう。弘前津軽・黒石津軽両家の藩主系図をみて明らかなように、弘前津軽家から黒石津軽家へは、信政の五男が黒石四代寿世(ひさよ)となっており、また宗家一門の津軽直記(信英の弟信隆(のぶたか)の家系、書院大番頭兼参政、一五〇〇石)の二男が黒石十一代承叙(つぐみつ)となっている。逆のケースとしては、黒石六代寧親が本藩九代藩主となり、黒石九代順徳(ゆきのり)が改名して本藩十一代藩主順承(ゆきつぐ)となっている。黒石立藩の立て役者となったのが本藩藩主となった寧親であり、彼以後両藩の家系維持のための交流が多く行われ、また名代としての黒石藩の役割が生じてきたのである。ここに、弘前・黒石両藩の一体化が促進されたといえよう。
つまり本藩後見役という立場から「副藩主」的立場への移行は、蝦夷地警備という大前提の中で、幕府からの公役遂行のために、寧親の本藩襲封とそれに続く本藩高直りを契機として、弘前・黒石両藩の一体化が図られることによって生じたのであった。