前半のピークであった天保四年の飢饉は単純な冷害による生育不良でなく、不安定な天候がもたらしたものといえる。前年の天保三年も天候不順で、前年比約二割減の不作だったが、『永宝日記』によれば、四年も春には雪消えが遅く冷害を予感させる気候であった。ところが五月には一転して日照りが続き、水不足のために苗を植えることができない場所もあったという。逆に六月には大雨となって洪水も発生し、さらに七月には「下り風」による暖気と湿気で害虫が大量に発生し、駆除のため田圃(でんぽ)に油を流さなければならなかった。しかし晴天は長続きせず、稲が赤変したという。そのうえ八月七日に雪が降るという異常気象で、凶作が決定的になった。米の値段も急騰し、前年には弘前で一俵当たり銀二八匁程度だったのが、七~八月には五五匁にもなり、さらに端境期の十月二十日過ぎには古米で一三〇匁、新米で一両というピークに達した。
八月になると、秋田領へ逃散する飢民が発生し、四〇〇〇人を越える飢民が碇ヶ関の関所を越えていった。しかし天明三年の際に比べるとまだ藩の対応にも余裕があり、扶助米を一日白米二合五勺、十一月からは三合ずつ与えたので、飢民もしだいに帰国しはじめたという。救小屋(すくいごや)は十一月の時点で在方にも一一ヵ所設置された、飢民は秋田領のみならず、松前・越後、さらには江戸にも流れ、江戸藩邸では小人(こびと)(掃除人)名目で彼らを雇い、一日四合の扶持を与えた。江戸の飢民約二〇〇人は、翌五年二月に国元に帰されたという(『天保凶荒雑報』)。