幕末期の藩財政

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嘉永七年(一八五四)四月、津軽弘前藩勘定奉行ペリー来航に伴う国情から異国への防備の触れが出ていることを受けて、七ヵ年で赤字財政を整理する計画を立てた(「安政初期津軽藩財政状況調」弘図八)。それによると、当時の同藩の平均的な収支は米方の収入が一三万七五九二石、そのうち年貢米が大半を占め、一三万五〇〇〇石である。米方の支出は一八万六三五三石、差し引き四万八七六一石の赤字を計上している。安永、文化期にあった家中知行の借り上げは考慮されていないため、財政収支が安永・文化期よりも縮小している感はあるが、依然多額の借財を抱えることに変わりはない。米方の支出のうち、家中への知行切米扶持の合計は五万三〇三四石(歩引渡をしている)、江戸廻米は五万石、大坂廻米は一万石で、文化期よりさらに江戸への廻米量が増している。さらに五万両の返済のための代米が五万七八〇〇石もあった。
 一方、金方は収入が一万六一七三両。費目は「年中規定諸上納」(一年間に規定される諸上納金)および相場の差額による一四七三両のみであり、やや漠然としている。支出は多岐にわたっているが、一〇〇〇両を越えるものは「御手山仕込金」「御土場駄賃銭并小廻運賃」など、国元藩政に関する運営費が多い。あとは参勤交代にかかる経費、武器庫の維持・武器新造の経費などもみられる。なお、米方の収入に家中からの買い上げがないのと対応して、安永、文化期に大きな比重を占めていた買上げ米の代金はここでもみられない。こうした諸支出が合計で二万八五八一両で、差し引き一万二四〇八両の不足を生じている。文化期に比べ、財政規模は縮小しているが、赤字額はさほどの変化はない。
 勘定奉行は、家中在方からの買い上げ米の復活などを中心とした赤字の縮小計画を立てたが、借財が多い中で江戸への廻米を減らすことは不可能で、さらに藩の冗費削減のための「御賄数」「小納上金」の歩引も思うように進まず、困難な状況にあることを認識している。
 結局、このような藩財政の窮乏は改善されないまま明治維新を迎えることになる。そのうえ、戊辰戦争による多額の出費がのしかかり、廃藩時の藩の借財額は六二万四二三二両に膨れあがり(「藩債調書」国史津)、まさに破綻寸前となっていたのである。