一二代承昭の襲封

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弘前藩最後の藩主となった津軽承昭(つぐあきら)は、安政二年(一八五五)一一代順承の養嗣子承祜(つぐとみ)の急死に伴い、翌三年肥後細川藩から養子に迎えられた人物(細川斉護(なりもり)四男、最初は寛五郎(のぶごろう)、後承烈(つぐてる)、承昭)である。承昭を養子とするに当たって、藩内ではあくまで津軽家の血統を継承する人物を藩主に求める声がわき上がった。具体的には承祜の弟、本次郎朝澄(ともずみ)(後、黒石藩主津軽承叙(つぐみち))を一二代に迎えようというのである。ところが、いったん兄承祜が順承の養子となった以上、本次郎は順承の娘と義理の仲とはいえ兄妹の関係となったのであり、それと婚姻することは封建時代では逆縁(ぎゃくえん)と呼ばれ、体裁の良いことではなかった。藩では承祜の死の直後から幕府に本次郎の婿入りが可能かを打診したが、幕府は難色を示し、他家より新たに養子を迎えた方が良いと提案した。また、一〇代信順の代に姻戚関係となった田安家もこれに同調したため、藩首脳は本次郎を黒石藩主に据え、血統存続を強調したうえで、この問題を宗家の近衛家の調整に頼ろうという主張が出てきたのである(資料近世2No.四六一)。
 近衛家の当主近衛忠熈(ただひろ)は姻戚関係にあった細川家に相談したところ、寛五郎が年頃であろうとの返答を得た。彼は安政三年に十七歳で、妾腹(しょうふく)とはいいながら藩主細川斉護(なりもり)の実子であり、江戸龍の口藩邸の部屋住みで、いまだ身の振り方が決まっていなかった。大藩細川家と縁を結び、近衛家ともより密接になれるこの申し出に、家老津軽図書大道寺族之助らが飛びついたのはいうまでもない。こうして承昭は安政四年(一八五七)一一代順承の娘常姫の婿養子となり、同十二月土佐守に任官、翌五年十二月四品(しほん)(従四位)に叙され、安政六年(一八五九)に一一代順承の隠居に伴って正式に家督相続し、藩主に就任したのである。

図41.津軽承昭

 ただ、こうした経緯で行われた承昭の襲封に反対する勢力も当然存在した。一時は途絶えた津軽家の血脈を、一門の津軽順朝(ゆきとも)の長男承祜を藩主とすることで藩内は一致していたし、それに異を唱える前藩主信順を近衛家の説得で半ば強引に沈黙させている。いかに近衛家細川家と絆が深まるとはいえ、そう簡単に血統復活の合意を捨てていいのかとの不満が一方で出てきた。その主張の急先鋒は用人山田登であり、彼は同志を募りながら家老西館宇膳山中兵部杉山八兵衛らと対決姿勢をあらわにし、藩政の中枢から退けられていった。やがて時代は戊辰戦争に突入し、藩はそのつど重大な政治選択を迫られたが、結局その選択は西館・山中政権で決断され、山田らは常に西館らの方針を糾弾(きゅうだん)した。そしてこの攻撃は戊辰戦争後も執拗(しつよう)に続けられ、明治二年(一八六九)・翌三年には藩内騒擾に発展したことから新政府の指導を受けることとなり、藩政改革の促進にも重要な影響を与えたのである(明治期の藩政改革については本章第三節参照)。