慶応年間に入ると倒幕の気運が高まり、時代は大政奉還・戊辰戦争という内戦に向かって激走していく。慶応期(一八六三~一八六八)に京都で活躍した人物といえば、京都留守居役の側用人西舘平馬(にしだてへいま)(建久、明治二年権大参事。孤清(こせい)と名のり、翌三年の帰田法など藩の重要政務を担当した)と同役赤石礼次郎であろう。そこで以下、慶応年間の京都情勢を主に二人の動向から考察してみよう。
慶応元年七月に西舘は近衛忠熈(ただひろ)に召し出され、同家から五ヵ年にわたり五〇〇両の助成金の拝借を許された(「雑事日記」慶応元年七月六日条)。これは蝦夷地警備・京都守衛・時局緊迫に対応する国元の軍事費増大によるもので、ここからも藩財政の窮乏が判明する。次に「雑事日記」に西舘の名前がみえるのは慶応二年(一八六六)十二月であるが、この時には承昭と近衛忠熈の六女尹子(ただこ)との婚約が整い、西舘は使者の役目を果たしている。婚約は翌慶応三年に幕府から正式に許可されたが、戊辰戦争勃発のため延期され、成婚は明治二年(一八六九)にずれこんだ。これによって近衛家―津軽家―細川家の関係は一層親密になった。
一方、「丁卯(ていう)戊辰在職経歴」(資料近世2No.四七二)と題された赤石礼次郎の日記によると、彼が京都留守居役に任命されて赴任したのは慶応三年九月で、大政奉還の直前に当たる。到着直後の十一月に赤石が世話した藩として仙台・肥後・秋田・米沢・柳川・前橋・会津・二本松・庄内(鶴岡)・盛岡などが散見され、幅広い情報収集活動がうかがえる。もちろん、赤石が得た情報は西舘へも直接伝えられており、両人はこの時期の弘前藩では最も中央情勢に精通していた。
慶応三年十二月八日、西舘と京都出役中の家老杉山八兵衛は禁裏御仮立所に招集され、赤石はそれに随行した。いわゆる小御所会議開催のためであった。出頭すると、武家伝奏(でんそう)の飛鳥井大納言と日野大納言が長州兵の入京可否について書面に意見をしたためて提出せよと命じた。これは幕府による長州戦争失敗後、長州藩主に官位復旧と同藩兵力の入京差し止めを解除するための措置であり、大政奉還には薩長の兵力が必須とされたため、朝廷としては是非とも公論のうえで認可する必要があった。西舘らは慎重を期していったん藩邸に帰って意見書を上呈したいと申し出たが、徳川慶喜が大政奉還を申し出たため事態は緊急の極みにあり、飛鳥井・日野両卿は弘前藩一藩の決議が遅れると全体が進まなくなるとして、怒気をあらわに退出を許さなかった。そこで西舘らは深夜までかかり、長州兵の入京を可とする答えを出している。
翌朝になり、御所を退出した赤石は藩邸に帰る途中で近衛家警備に出張していた実弟土岐万之助に出会い、京都市内の様子を聞き、また、自身も見聞しているが、市中には薩摩藩兵が大砲や小銃を携えてあちこちに充満しており、まさに戦乱勃発前夜の感があった。
この後、事態は徳川慶喜の京都離脱、慶応四年(明治元)一月三日の鳥羽伏見の戦いと推移していくが、戦局の展開に伴って、戊辰戦争の波は遠く離れた弘前にも伝わり、時代を大きく変換させることとなる。その時、必要となったのは情勢を分析し、次に藩がとるべき方策を定めることであるが、戊辰戦争を最終的に勤皇で乗り切る方向に導いたのは近衛家の令達を受けた西舘平馬によってであり、京都で見聞した情報は非常に重要な意義をもっていた。