庄内征討命令をめぐって

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弘前藩が討庄応援の準備を始め、出兵を繰り返していた間にも、新政府軍と旧幕府軍との攻防は二転三転していた。四月十日には、ともに朝敵として征討の対象となった会津藩庄内藩の間に会庄同盟が結ばれた。四月十一日には江戸城が開城され、徳川慶喜は水戸に向かった。しかし、旧幕府内には新政府の処置に異論を唱えるものも多く、大鳥圭介旧幕府軍を率いて江戸を後にした。また、榎本武揚ら海軍は、館山(現千葉県)方面に脱出を遂げた。これを受けて、奥羽鎮撫総督軍は総勢を二分し、沢為量副総督らは庄内征討のために岩沼(現宮城県)を後にし、新庄へ向かった。四月十九日には、大鳥圭介隊が宇都宮城を攻略するが、二十三日には政府軍が再び回復した。やがて、二十九日には今市(現栃木県)での戦闘に敗れ、大鳥らは会津へ退却したのであった。閏四月四日には天童が庄内軍の攻撃で落城した。反政府軍に対する奥羽諸藩の勢いが強くなる中で、閏四月六日討庄の厳命を受けた秋田藩は、七日、庄内藩征討に対して不信の念を抱きながらも、勅命に背くわけにもいかないという消極的な態度で出兵した。対する庄内藩も受けては立つが、秋田藩に重ねて周旋を願いたいという返答をしたのであった(『秋田県史』第四巻 維新編)。
 その中で、弘前藩から応援隊を率いて出兵していた館山善左衛門より 政府軍庄内藩の攻防の様子について報告があった(資料近世2No.五二六)。そこには戦況のほかに、風説としながらも、仙台藩の動きが総督軍の意に反するものであること、庄内藩から仙台へ向け早駕籠がしきりに行き交っていること、庄内戦争に参加している薩長勢が劣勢であるということも報告している。閏四月十九日には仙台・米沢藩主が攻口の解兵を九条総督に宣言していたのであった。また翌日には、奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵が、強硬な態度で事に当たり、奥羽諸藩を敵視したために、仙台藩等の反感と危機感を強めさせ、仙台藩士たちに暗殺されるという事件が起こった。仙台・米沢を中心とする奥羽勢の勢いが奥羽鎮撫総督軍に大きく迫ってきていたのである。

図47.砲弾を受け破壊された会津若松城

 討庄応援命令に従う方針を定めた弘前藩は、続々と応援兵を繰り出していたが、庄内藩征討の中心である秋田藩が、ためらいを濃くしていた。そこには、罪状の不透明さや曖昧(あいまい)さなどが秋田藩の行動を阻む大きな要因としてあったのである。四月中旬、秋田藩は、本格的な出兵行動を起こすが、一方では総督府へ問罪のうえでの征討を嘆願していた。当初、勅命に対して積極的に従う態度をみせた秋田藩も、実際に庄内征討を命じられ、出兵する段階になって、慎重な態度をみせるようになってきていたのである。しかし、再三に及ぶ秋田藩の問罪・討入猶予願いも、聞き入れられない状況が続いた(『秋田県史』資料 明治編上)。

図48.久保田城

 四月二十五日、問題の協議のため秋田へ出張していた工藤嘉左衛門が帰藩して、討庄出兵に苦しむ秋田藩の事情を報告した。しかし、四月二十八日、新庄に赴いた杉山八兵衛からの知らせで、庄内には薩長の兵が押し寄せ、戦争が始まったという情報が入った。また、翌二十九日に、秋田より帰着した桜庭富蔵の報告内容は、度重なる問罪・討入猶予願いも聞き届けられず、逆に出陣を迫られ、やむをえない状況に陥ったというものであった。つまり、秋田藩がとうとう庄内藩へ向けて軍事行動を起こす決定をしたのであった(『弘前藩記事』一)。秋田藩が実戦を決意したという知らせは、弘前藩にとっても同じ覚悟を迫るに十分な材料であったといえよう。ところが、逆に閏四月一日になって、今度は宇都宮戦争における政府軍の劣勢の報も入ってきていた。
 多くの情報が飛び交う中で、弘前藩は、閏四月五日、山中兵部らを秋田・仙台へ向けて出立させた。錯綜してきた情報の真偽と近隣諸藩の動向を見据えて、藩を主導していく責任を果たすための出張であったといえよう。