盛岡藩の参戦

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こうして、秋田藩を目指して庄内・仙台・米沢藩ら同盟軍が北上を続ける中、今度は盛岡藩が不意をつく形で秋田藩の北側に位置する十二所(じゅうにしょ)(現秋田県大館市)口を攻めてきた。八月九日のことである。南で行われている庄内征討のための戦闘に力を注いでいた秋田藩は、北方の境には十二所所預(ところあずかり)の任についていた茂木筑後(もてぎちくご)のもとに二〇〇人余りの警備兵を配置しているに過ぎなかった。そこに盛岡藩兵一四〇〇人が鹿角(かづの)街道口と葛原口・新沢口から進攻してきた。こうした状況ではほとんど防御もできず、間もなく秋田藩は比内の扇田までの盛岡藩進攻を許す結果となった。
 八月十日、総督府は盛岡藩征討を表明し、同時に弘前藩に総督府参謀醍醐忠敬の弘前転陣を伝えた。盛岡藩征討を進めるための決定であった。
 八月十二日には、十二所口から退いた秋田藩兵が回復を目指すべく扇田まで攻め入り、盛岡藩勢を十二所口まで押し戻した。しかし、その代償は大きく、この日の戦闘は両軍合わせて五〇人に及ぶ戦死者を出す激しい戦いとなった。
 また、山館(現秋田県大館市)近辺においても応援に駆けつけた弘前藩兵が加わって、盛岡藩兵との戦闘が繰り広げられた。この時参加した弘前藩対馬官左衛門率いる銃隊は、対庄内戦へ出兵する途中で盛岡藩兵の襲来を知り、荷揚場(現秋田県北秋田郡二ツ井(ふたつい)町)より引き返して戦闘に参加したのであった(『弘前藩記事』一)。彼らがみた十二所一帯の村は焼かれ「原野同様ノ体」であったという(同前)。弘前藩からは、この後対馬隊のほか、十日から十一日にかけて、銃砲隊三小隊を急ぎ出発させた。また十四日には装備の手薄な大館城代佐竹大和へ鉄砲一〇〇挺・弾薬一万発の差し入れなども行った(同前)。

図60.大館周辺図

 八月十四日、弘前藩では藩庁から次のような知らせが家中へ出された。つまり、十日に九条から呼び出しがあり、盛岡藩が秋田十二所へ出兵し発砲したことについて弘前藩へ征討を命じられるとともに、醍醐忠敬を弘前へ転陣させることが発表されたというのである(『弘前藩記事』一)。これにより、弘前藩では全藩を挙げたより一層の覚悟が求められるのである。一方、戦線が藩境に迫ったこともあり、藩内では藩境の警備がさらに強化されるとともに、領内要地には砲台が築かれ、軍夫の徴発も行われた(資料近世2No.五四一)。
 盛岡藩の軍勢が十二所から再び進軍を開始したのが八月二十日。そして、翌日には鬼ヶ城と山王台までを押さえたのである。大館城代佐竹大和は銃砲隊を編成して盛岡藩の来襲に備えたが、こちらも激しい攻防が繰り広げられた。しかし、八月二十二日にはついに大館までが陥落し、情勢は非常に緊迫した。大館を退いた諸兵は荷揚場まで撤退した。
 こうした状況に、弘前城下からは家老西館宇膳(にしだてうぜん)や杉山上総(かずさ)などをたて、藩境碇ヶ関(いかりがせき)に向けて応援兵を繰り出した。また、箱館へ詰めていた弘前藩兵も引き揚げさせて、領内警備を強化した。
 十二所・大館方面の戦況に転機が訪れたのは、八月末のことである。八月二十八日、総督軍参謀副役である佐賀藩田村乾太左衛門(かんたざえもん)を総隊長に、官軍諸隊の応援兵が秋田藩北境に到着した。およそ五〇〇人にのぼる援軍の加勢により、翌二十九日、すぐさま大館奪回を目指した反撃が行われ、政府軍は苦戦を強いられながらも圧倒的な火器の差もあって、ようやく形勢を逆転させた。九月六日には盛岡藩勢は藩境まで後退して、秋田藩は大館・十二所を回復する。盛岡藩も再進攻を試みるが、さらに攻め入られて盛岡藩領が脅かされるようになると、これ以上の進攻を実行できず、降伏を余儀なくされたのであった。
 九月二十日、とうとう盛岡藩は袈裟掛において停戦を申し出、総督府に対して交渉を開始する。盛岡藩が正式に降伏を通告したのは、九月二十五日のことであった。