野辺地戦争の動機

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盛岡藩攻撃を命じられてから、弘前藩は佐賀藩出身の総督府参謀前山精一郎らと軍議を重ねていた。そして、九月五日、館山善左衛門から報告が入った。それは、前山精一郎中牟田倉之助から、彼らによる海上攻撃と弘前藩による陸上攻撃で共同戦線を張り、盛岡藩を同時攻撃する作戦を提案されたためであった(資料近世2No.五四七)。佐賀藩は強力な海軍力を誇っており、西洋艦船等近代設備の所持とともに、人材の充実という、両面を兼ね備えた自信により、野辺地攻撃を提案したのであった。ちなみに、中牟田倉之助は、海軍伝習所で学んだ後、佐賀藩海軍学寮の教官を務めた人物である。
 しかし、軍議を進めた結果、弘前藩庁ではこの作戦をいったん了承したものの、碇ヶ関よりの杉山上総書状(同前No.五四八)にみえるように、野辺地口ばかりを先行して攻撃しても、盛岡藩兵がそこに集中し、逆に不利にもなりかねないので、成功させるには、大館口をも含めた「三方一斉」の攻撃作戦を実行することが必要であるとして、一時中止を申し入れたのであった。これが、九月七日のことである。
 詰まるところ、弘前藩としては、兵力を分散して戦うことに難色を示したのであった。しかし、なかなか行動に移さない弘前藩を待つ間に盛岡藩側からの攻撃が開始されては元も子もないと、中牟田率いる海軍のみが進発してしまった。軍艦加賀丸は九日、青森を出発したが天候が悪く、いったん安渡(あんど)村(現青森県下北郡大湊)へ停泊し、十日、改めて野辺地沖より砲撃を開始したが、盛岡藩側からも応戦があり、八発のうち二発が加賀丸に命中してしまった。結局この日も「難風浪強進退不自由」のため、野辺地へは進撃できず、無人となっていた脇野沢から大砲などの分捕品を得て、九月十一日、破損部分を三厩で修復することとし、同日、中牟田は、前山精一郎へこの間の事情を報告した。政府の威信を示すための攻撃が、弘前藩の協力がないために返り討ちに遭ったともみえるのである。

図63.佐賀藩船から発射された砲弾

 実は、弘前藩首脳部では九月五日の段階で、中牟田隊が単独で野辺地を攻撃する懸念を抱き、そのうえで、旧幕府が一朝にして崩壊したことを引き合いに出し、協力しない場合の結果についても憂慮していた。その恐れが、ここで現実のものとなってしまった。
 戦禍がとうとう陸奥湾に至ったことには、大きな動揺が走ったが、この攻撃で盛岡藩への打撃はほとんど与えられず、とても戦況の展開に貢献したといえるような戦いではなかった。逆に、加賀丸は損傷を受け、盛岡藩馬門口の警備強化を進めたため、弘前藩はその意に反し、総督軍の威を損なう行動をとったと判断されかねない状況に陥ったのであった。しかも、藩論の統一をなかなかみなかった弘前藩は、すでに一度ならず新政府から不興を買っており、そのうえでの事件であったことは、大いに弘前藩を慌てさせた。そのうえ、今回は弘前藩自体の敗戦ではなく、総督府中牟田の失敗であり、弘前藩は、今回の作戦に関して官軍に協力をしなかった責任を問われかねない状況であった。
 同盟諸藩が次々と降伏をしていく中、弘前藩はなんとしても、勤皇の実功を立ててみせなければならなかった。では、そのことを証明するには、どのような方法があるのか。
 陸奥湾も戦場の一部と位置づけられた今、津軽領は苦戦を続けている大館口戦場とに挟まれる格好となった。一方で盛岡藩は、弘前藩の侵攻を予想し、防御を固めるとともに、決して自らは戦いの口火を切らないように念を押していた。勤皇を表明している弘前藩に攻撃をしかけた時点で、朝廷に対する盛岡藩の罪状が決定しかねないからである。さらに、仙台をはじめとする列藩同盟中心藩の降伏を受け、九月二十一日には、秋田藩へ総督府との調停を申し込むなど、降伏へ向け準備を進めていた(『弘前藩記事』一)。
 しかし、この状況下で弘前藩が自らの身の証(あかし)を立てるには、盛岡征討命令を、身をもってまっとうするほかなかったのである。
 盛岡藩との戦いについては、前述の津軽承昭熊本藩への援軍要請にあった「旧怨之国柄」(資料近世2No.五四六)という意識がないわけではなかったであろうが、弘前藩を戦場に駆り立たせたのは、やはり切迫した状況下での勤皇意識というべきであろう。今度は、弘前藩兵が九月二十二日、野辺地馬門口へと攻め入ったのであった。