藩兵の整理

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藩治職制問題と密接な関係があったのが、藩兵の解体である。先に述べたように、新政府は諸藩が抱える軍事力を危険視し、一万石につき六〇人程度まで藩兵を削減しようとしていたが、なるべく多くの軍事力を手元に置きたい諸藩はこれに強い難色を示し、両者の間には緊張が続いていた。
 では、弘前藩の藩兵解体状況はどのようなものであったのだろうか。表25は明治元年から明治四年四月までの藩兵数と整理・統合の様子を示したものだが、これによると藩政改革が行われるたびに藩兵も削減されていったことがわかる。まず、明治二年六月十二日の段階での藩兵数は、足軽を除いて二二七二人にも上った。彼らは番方の中核である旧御手廻組一等銃隊とし、同格が一等銃隊次席、旧小姓組が一等銃隊隊外という具合に、以下四等銃隊御雇入の部まで、戊辰戦争中に雑然となった諸隊が封建的家格秩序に沿って再整理されており、解兵がこの時の直接問題ではなかった。弘前藩の場合、藩兵の膨張は戦時中に行われた二等(後、三等)銃隊の創設に原因があるが、彼らは熕(おおづつ)隊(大砲隊)・同御雇入・四等銃隊・同御雇人の四隊にまとめられており、その総数は一〇四四人、藩兵の四六パーセントを占めていた。藩士の子弟や傍系親族から成される彼らは、組織する際に月玄米二斗の支給で済み、兵の要員として若く強壮であったため、戊辰戦争では最前線に駆使され、戦後も解体するには惜しまれる存在であった。

図表25.藩兵の変遷一覧(表中のMは明治の意)

 そのため、藩兵の解体は彼ら以外の諸隊でまず進行した。たとえば、旧御手廻格や御馬廻格などの「格役」は長年の勤続に対して名誉的に与えられる家格であり、必ずしも固定的なものではなく、戦後も「銃隊次席」とされていた。また、旧留守居組御目見得以下支配の者は、藩士とはいえ元来家禄も低く、小普請(こぶしん)組(無役)であり、閑職層であった。藩が最初にまとまって整理したのはこうした部分であり、両者は明治三年六月に廃止されている。また、他の諸隊でも表中のような統合が明治二年中に進行し、その都度人員が削減されている。こうして、明治三年七月までに族を除いた藩兵数は一四三六人まで減少した。
 しかし、藩政改革が遅れたように、藩兵解体も容易には進まなかった。当時、兵部省から指示された兵員数は弘前藩の場合八四〇人であり(一万石につき六〇人、弘前藩の現石高は一四万石)、兵員過剰は明らかであった。そこで、明治三年六月に菱田重禧(ひしだしげよし)は藩政改革の一環として兵員削減についても強力な指導をしたと思われる。同七月八日に軍事局の組織が定まったが、これとともに弘前藩最後の軍制改革も断行された。この日全藩兵は後日に正規軍とされる「常備兵」が編成されるまでの「予備軍」と呼ばれ、教官吉野芳次郎が招聘(しょうへい)されて、フランス式陸軍操法が導入された。その訓練の過程で「常備兵」に適する要員が選抜されていったが、訓練は四年四月まで続き、十九歳から三十歳までの屈強な者八二一人が最終的に残り、藩兵削減はどうにか新政府の指示する人数まで到達した。
 ただ、問題はこの削減により解職された藩士たちである。彼らは完全に冗員化し、家禄削減のうえ、藩兵に支給されていた月給も停止されたことでたちまち困窮した。先に述べたが、帰田法の実施にはこのような情勢も背景としてあったのである。