帰田法の政策推移を考察すると、その本質に大きく変化がみられるのが、明治四年七月十四日に断行された廃藩置県前後のことである。同年七月十二日に藩は規則を再び改定し、分与地の士族・卒同士、農民所有地との交換を認め、家禄に応じて在方への引越費用や現物支給量を定めた(資料近世2No.六〇六)。またこの時、城下に近い和徳(わとく)・堅田(かただ)・向外瀬(むかいとのせ)・取上(とりあげ)・小比内(さんぴない)など一九ヵ村に分与地が与えられた者に対しては、引越費用と屋敷地の支給を停止している。そのため、現市域では早い時期から分与地の転売が進展し、結果的に帰田法の影響が出にくかったという現象につながっていく。
そして、同年八月二日には来年の秋より、移住の有無に関わらず、地主作徳米の徴収を認める旨の布令が出されるに至った(同前No.六〇八)。さらにこの方針は同年九月八日になると、今年の秋の収穫分から徴収が可能とされた(同前No.六〇九)。ここに、帰田法は士族らを自作農化するという目的を棄て、弘前城下にいながら農村からの利益を享受できる途を開いたのである。
では、どうしてこのような急激な転換が起こったのだろうか。それはやはり廃藩置県の影響に他ならない。もはや弘前藩は消滅し、このままでは戊辰戦争以来、疲弊した士族・卒は何らの救済措置もないまま、先行き不透明な時流に投げ出されてしまう。幸い、廃藩後の当面の事務処理は旧藩の担当とされたから、この間に弘前藩では帰田法を急いで実施し、既成事実を積み上げてしまおうと意図したのだろう。加えて、分与地購入代金も同年九月には翌四年一ヵ年で約七〇〇〇両分の米を放出することで終了とされたし、実際はそれさえも実行できないまま、後日古米二万俵余が渡されただけであった。このように帰田法は地主らの一方的な犠牲の上に、藩が露骨な収奪をした政策であった。
よって、野田豁通(ひろみち)が四年十月に大参事として新生青森県に赴任すると、早速帰田法の緩和ないし停止に関する指令が出された。たとえば、同年十一月上旬にはすでに農村移住を願い出ている八三一人の士族・卒の引越代米が大幅に削減され、その他一七八二人の家財運搬用人馬および家作用材の支給も停止された。また、農村に移住した者で、弘前に屋敷がある場合、その屋敷地は青森県に上地(じょうち)されることとなった。こうして、明治五年二月には中央からも正式に帰田法停止命令が下達され、活動はまったく止んだのである。