王族利益の実態と帰田法の意義

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明治六年(一八七三)十一月に帰田法立案者の中心であった旧小参事西舘孤清(こせい)は新政府弾正台(だんじょうだい)に召喚(しょうかん)され、帰田法について尋問(じんもん)を受けた。疑義(ぎぎ)の内容は、帰田法地主から土地を取り上げ、経済を混乱させたのではないかというものである。これに対して西舘は、いま民間に耕地を返却しようにも、大半は第三者に譲渡されており、どうしようもないと申し述べた。つまり、せっかく分与地を配賦されながらも、多くの士族らはそこから得られる利益が少ないことから、早々に土地を転売して、もはや責任のとりようがないというのである。では、実際に士族らはどの程度の作徳米を得られたのだろうか。次の表やグラフにより考察していこう。
 表27は帰田法の対象とされた士族家禄・人員数・分米高・田地面積などの分布表である。これによると、帰田法の適を受けた数は二四九四人、分米高総計二万二三九八・七二石、分与された田地面積は全体で二八三七町三反七畝にのぼっている。そして、これに宅地の配給分を加えると、藩が意した二九四五町歩余と数値的にはほぼ符合する。
表27.禄高士族数および分与地面積
No.家 禄士族分米
(石)
田地面積
(町歩)
分米累計
(石)
田地面積累計
(町歩)
1350俵   184  10.5  84  10.5  
2330俵   179.2 9.9  79.2 9.9  
3220俵   152.8 6.6  52.8 6.6  
4200俵   948  6   432  54   
5180俵   143.2 5.4  43.2 5.4  
6160俵   138.4 4.8  38.4 4.8  
7150俵   436  4.5  144  18   
8140俵   133.6 4.2  33.6 42   
9130俵   631.2 3.9  187.2 23.4  
10120俵   128.8 3.6  28.8 3.6  
11110俵   226.4 3.3  52.8 6.6  
12105俵   125.2 3.15  25.2 3.15  
13100俵   2624  3   624  78   
1497俵   123.28 2.91  23.28 2.91  
1595俵   822.8 2.85  182.4 22.8  
1690俵   321.6 2.7  64.8 8.1  
1780俵   32319.2 2.4  6,201.6 775.2  
1870俵   116.8 2.1  16.8 2.1  
1960俵   6614.4 1.8  950.4 118.8  
2057俵   113.68 1.71  13.68 1.71  
2155俵   613.2 1.65  79.2 9.9  
2250俵   912  1.5  108  13.5  
2345俵   2310.8 1.35  248.4 31.05  
2443俵   110.32 1.29  10.32 1.29  
2540俵   2499.6 1.2  2,390.4 298.8  
2637俵   38.88 1.11  26.64 3.33  
2735俵   208.4 1.05  168  21   
2830俵1斗  47.8 0.9075 31.2 3.63  
2930俵   8257.2 0.9  5,940  742.5  
3029俵8升  17.0080.876 7.0080.876 
3128俵2斗7升26.8820.8602513.7641.7205 
3228俵1升  216.7260.84075141.24617.65575
3328俵   16.72 0.84  6.72 0.84  
3427俵2斗6升26.6360.8295 13.2721.659 
3526俵2斗1升26.3660.7957512.7321.5915 
3626俵   16.24 0.78  6.24 0.78  
3725俵   46  0.75  24  3   
3823俵3斗4升35.7240.7155 17.1722.1465 
3920俵1升  14.8060.600754.8060.60075
4020俵   6514.8 0.6  3,124.8 390.6  
4118俵   24.32 0.54  8.64 1.08  
4215俵   2053.6 0.45  738  92.25  
合計2,49422,398.72 2,837.37  
注)五所川原市楠美家文書87「俵子拾五俵以上士族給禄調・明治四辛未三月」より作成。

 さて、表27によると、田地面積の最大は一〇・五町歩、最小は〇・四五町歩と大きな開きがあるが、さらに細かくみると、三町歩以上の田地を配賦された者は全体の二・二パーセント(五五人)、三町歩未満から二町歩は一三・五パーセント(三三六人)、二町歩未満から一町歩は一五・二パーセント(三七八人)、一町歩未満は六九・二パーセント(一七二五人)で、約七割の者が一町歩に達しておらず、分与面積としては極めて零細(れいさい)といわざるをえない。
 では、次にこの田地から士族らは実際どれほどの地主作徳米を得られたのだろうか。それを求めるためには、明治初年段階で津軽地方の反別収穫米・地主作徳米高がどの程度であったかが判明しないと困難だが、『弘藩明治一統誌・士族卒在着録』(一九八五年 青森県立図書館郷土双書二四集)中にある、一律どの村でも地主作徳米が反別二斗を得られたという記載によって論を進めたい。
 図75は表27と地主作徳米二斗という数値から作成したグラフである。これをみると特に目立つのは、二石を境として、それ以下の数が急増していることである。たとえば、分与地が一町歩未満の一七二五人(全体の六九・二パーセント)は一石台から一石未満であり、これでは作徳米は「生計の足し」の範疇(はんちゅう)を超えないだろう。それを少しでも緩和しようとすれば小作人を排除して直作(じきさく)しなければならないが、小作人の追放は前にみたように、藩が厳禁していた事項であった。ただ、士族には家禄支給が保障されていたから、それと合わせれば若干のゆとりが出てくるであろうが、それでも大多数は苦しい生活を余儀(よぎ)なくされたであろう。

図75.地主作徳米別グラフ

 以上のことはあくまで机上の計算によるものだが、在地の田地配賦と地主作徳米高の様子を概観(がいかん)するために、表28をみてみよう。この表は羽野木沢(はのきざわ)村(現五所川原市羽野木沢)の豪農阿部家の所持田地に配賦された者が、明治四年中にどれほどの作徳米を得たのかを示している。二〇人の士族禄高に応じてそれぞれ作徳米が配給されているが、その全部が家計に入るのではない。まず、表中「扱い料」とは、明治三年十一月に認められた大作人に対する謝礼分であり、規定では五パーセントとされていたが、中には若干それと合致しない者もいる。その理由ははっきりしないが、士族大作人間の貸借関係、土地等級や収穫高等の問題から多少の差異が現れたものと思われる。さらに、「諸郷役」とはいわゆる高懸銀(たかがかりぎん)と称する農民からの積立金で、在地の水・河川補修等に充てた農村慣行であり、その額は表からみると平均一九・四パーセントが控除(こうじょ)されている。結果、士族の純益は作徳米の平均七六パーセント、全体で八八・六石余に減少している。それを士族分与地面積の合計二三・一三町歩余で割ると、反別の作徳米は三斗八升三合余となり、これは先にみた作徳米二斗の基準の約一・九倍となり大幅に上回る。そのわけは、明治三年が豊作だったため、翌四年には大きな配分を得られたのであろう。ただ、詳しくみると、同じ家禄でも士族純益には大きなばらつきがあり、村位・土地等級や水の条件など、さまざまな要因によって利益は変動したと思われる。
表28.阿部家分与士族作徳米一覧
No.士族氏名家禄
(俵)
分与地面積分与村作徳米高
(石)
扱い料諸郷役士族純益
(石)%(石)%(石)%
1桜庭半兵衛1002.86町16歩羽野木沢村13.769 0.689 5.02.855 20.710.225 74.3
2白戸勇之助802.45町10歩中泉村13.118 0.629 5.02.652 20.29.837 74.8
3成田喜与松802.21町27歩羽野木沢村10.865 0.542 4.82.218 20.48.096 74.8
4佐々木又吉802.39町15歩俵元村13.639 0.692 5.02.696 19.810.251 75.2
5平井平太左衛門401.16町28歩俵元村6.215 0.311 5.01.168 18.84.736 76.2
6馬場豊太郎301.1町17歩羽野木沢村3.79 0.189 5.00.603 15.92.998 79.1
7土岐孫八301町11歩原子村6.134 0.356 5.01.003 16.44.775 78.7
8川口十之丞300.72町16歩原子村3.69450.18955.80.724519.62.780574.6
9葛西次郎兵衛301.07町歩中泉村4.921 0.246 5.51.09 22.13.585 72.3
10下沢門弥300.89町歩中泉村3.030 0.144 5.00.89 29.41.996 65.6
11木崎忠蔵300.69町4歩持子沢村5.045 0.25354.80.690513.74.101 81.6
12清藤忠八200.73町4歩羽野木沢村4.63750.232 5.00.731 15.83.674579.2
13新谷市三郎200.73町3歩羽野木沢村4.63750.232 5.00.731 15.83.674579.2
14小田桐金弥200.58町15歩羽野木沢村2.281 0.141 5.00.583 20.72.097 74.3
15小山内貞一郎201.4町9歩羽野木沢村・俵元村5.187 0.26 5.00.932 18.03.995 77.0
16工藤小兵衛200.58町5歩羽野木沢村2.13 0.115 5.00.582 27.31.433 67.7
17小野永助200.55町歩羽野木沢村1.981 0.099 5.40.55 27.81.332 66.8
18藤田慶蔵200.68町18歩原子村3.932 0.196 5.00.64 16.33.087 78.7
19三橋鉄弥200.58町11歩原子村2.932 0.147 5.00.584 19.92.201 75.1
20須田源之丞200.69町4歩持子沢村4.623 0.23155.00.660514.33.731 80.7
23.13町3歩116.56155.89455.122.583519.488.605576.0
注)『五所川原市史』阿部家文書330より作成。

 それでも、こうした利益にもかかわらず士族の家計は好転しなかった。表28のNo.1家禄一〇〇俵(=一俵四斗詰であるから四〇石)桜庭半兵衛の場合、二・八六町歩余の分与地からの純益一〇・二石余は家禄の約二五パーセント増になるが、この程度では藩政改革の結果、削減された家禄を補填する意味合いでしかなかったであろう。少なくとも、桜庭がこの分与地を家計の中核に据えて農業経営をなす意味合いは希薄(きはく)である。そう考えれば、帰田法の意義とは、削減家禄分を回復し、改革後に生み出された余剰士族らを農村部に移住させることで、弘前城下で消費一辺倒(いっぺんとう)であった彼らを、より生産的な場に近づけようとした政策と位置づけるのが最も妥当である。確かに士族らには自作農となる途も開かれてはいたが、日々の生活に事欠き、農業経営のノウハウも持たず、移住資金もなく、いったん移住した後は弘前の屋敷地も取り上げられるといった状況下では、前に西館孤清が陳述(ちんじゅつ)したように、士族らにすれば過小な利益のために、即座に分与地を転売するよりほかなかったのである。
 最後に、帰田法の意義としてもうひとつの問題点を指摘しておきたい。それは分与地の収奪を受けた農民側のその後の転身についてである。明治五年(一八七二)、新政府は商売の自由を布告したため、農民でも資力さえあればどんな商売でも始められるようになった。いわゆる近代資本主義の開始である。ところが、帰田法により一〇町歩以下に所有田地を減らされた津軽地方の農民はこの開始に大きく乗り遅れた。また、家勢を立て直すには従来どおり農業によるのか、あるいは他の方途に進むのかも大きな岐路(きろ)となった。たとえば、前述の羽野木沢阿部家(帰田法で三〇町歩献納)は非常な努力をして分与地を買い戻し、明治二十年代には一〇〇町歩地主として確固たる地位を占めたが、石岡村(現五所川原市石岡)の豪農寺田左吉家(帰田法で二〇町歩余を献納)は、農業経営を続けながらも、資本投資の主力を酒造業に向けたためか、ついに往年の経営を再建することはできなかった。