このような実態を踏まえて、この項ではそれに続く維新期の商品流通の様相を青森商社という交易組織を中核として考えてみたい。以下、主に伊東善五郎の養子彦太郎が書き残した「家内年表」・「家内通観」(『青森市史』7資料編1 一九六六年 青森市刊)に依拠して論を進めたい。
箱館戦争がいまだ終結していなかった明治二年(一八六九)三月、弘前藩は以下のような布令を発した。それは、新政府は交易政策に積極的であり、蝦夷地に日本各地の商船が来航して利益をあげているのに、領内の商人は資本力が弱いことから、蝦夷地に近いという利点がありながらも交易が不活発で、このままでは富国強兵という新政府の御趣旨にも背くこととなる。それを克服するために「仲間」を結成し、西洋型株式方式の商社のように、在町の者たちの資金を合資することで交易の伸張を図ろうというものである。その際、建て前は商人たちによる出資金に応じた利益の配当があるとはいいながらも、内実は藩による手厚い保護を約束したうえで、幅広い参加者を募った組織であった。藩主導の対蝦夷地交易を目的とした西洋型商社が、青森商社である。
右の商社設立布令は三月二十五日に滝屋のもとへ伝達されたが、彦太郎は商社、商社といっているが、いまだその趣旨も詳しくわからないし、箱館の情勢が落ち着かない中で松前産物の買い付けといっても怪しいことだと心配している(「家内年表」明治二年四月二十九日条)。つまり、設立段階で藩は民間に何の根回しもなく、突然、青森商社の開設を公表したことがわかるが、資本金のほとんどを藩庫から出そうとしていた藩としてみれば、そうした必要性を感じなかったのであろう。商社惣司(そうじ)(通商署商社局長)にはとりあえず勘定奉行毛内貫太郎(もうないかんたろう)が任命されたが、早速、伊東善五郎は塩鮭一尺・酒二升を持参し、毛内のもとに挨拶に出向いている(同前明治二年三月二十五日条)。
その後、商社組織は順次固められて行き、青森に本局が、弘前に取次所が設置され、六月十六日に青森では頭取に滝屋・金沢屋忠左衛門・河内屋吉郎右衛門が、商社加担(かたん)に長谷川与兵衛・大木屋円太郎・近江屋文蔵・豊田太左衛門・滝屋兼蔵・西沢伊兵衛・久保久七・柿崎忠兵衛ら一一人の有力商人が任命された。また、弘前では今村九左衛門・鳴海久兵衛・近藤慶次郎・武田熊七・野村常三郎ら六人が加担商人とされ、商社の運営に当たっていった。商社館は滝屋の店先である青森浜町に建築され、六月二十八日に柱立てが行われ、八月十二日に落成したが、それまでの諸会合には滝屋の屋敷が使われ、弘前側の商人たちも青森に来るたびにここに宿泊した。この時期は箱館戦争前後で、官軍諸藩の賄(まかな)い方に忙殺(ぼうさつ)されていたころである。加えて商社のためにも尽力せねばならなかった滝屋の負担は大きかった。新築の本局には藩からの役人が一人、青森の米金仲買一二人のうち二人が五日交替で詰め、通い番頭一人・手代二人が常駐し、滝屋は帳場の一切を担当した。こうして箱館戦争が終結した後、青森商社は本格的に活動を開始したのである。