津軽領では元禄八年(一六九五、この年大凶作)以来経済が低迷し家中および在・町とも困窮状態が続いていた。
「国日記」元禄十四年二月十五日条の藩士に宛てた覚によると、前述の理由から物資の流通も少なく、町方商家では商品にも事欠く状況に置かれていたため、家中の中には京・江戸・大坂へ内密に注文したものの、代品が届けられたり高値をつけられるなどしていた。これに対し藩では「京座会所」を設け、ここで一切(いっさい)を取り扱わせる策をとっている。すなわち、注文は各自させるが、支払いは各家庭に養蚕を奨励し、生産された繭で決済させるようにした。もっとも繭に限らず紅花(染料)・からむし・藍などでもよかった。また織りの普及を図り、織り立てた布地のうち絹は紬(屑繭から作った真綿(まわた)を手紡(つむ)ぎし、その糸を緯に用いた手織の絹織物)以上、布(麻の類)は生平(きびら)(からむしの繊維で平織りにし晒(さら)していないもの。麻に似ているが、上質で多く帷子や羽織に用いる)以上については、自家用を除き余分は会所に集めさせていた。
町・在に対しては、織りの希望者を織座に加わらせて技術指導を行い、織り出した絹・布で商品となりうるものについては会所に集め相場で買い取っていた。遠隔地のため会所に搬送が困難な場合には、その村の庄屋が会所に連絡をとったうえ、庄屋を通じて頼み売り(委託販売)の方法をとらせている。なお脇売りの場合は会所に持参させて丈尺を改め、証印を受けさせたうえで許可していた。また糸・繭・からむしおよび紅花その他織物類も会所に持参させ、他国商人への売り渡しを固く禁じる一方、移入の織物については一切売買が自由であった。
なお桑畑を必要とする者には未耕作の土地を見立て、会所に連絡のうえ桑畑としての利用を許可した。またすぐれた織りの技能を持ちながら仕込金に難儀している者には、相談しだいでどのようにも対応するとしていた。
以上のように織物会所では、救民の手段として養蚕と織りの授産を取り入れ、またそのための機会や金銭面その他で便宜を与えるのにやぶさかではなかった。さらにこれを領内の殖産につなげる一方、繭や織物等生産物の他出には厳しい制限を設け、藩の独占的買い取りと専売的手法をとっていた。