津軽における漆工芸の起点

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縄文時代、漆を取り扱う技が青森県にあったことは、大正十五年(一九二六)、八戸市是川中居(これかわなかい)遺跡で、多彩な漆工芸品が発掘されて以来、関係者たちの間ではよく知られていたことである。さらに近年、青森市の三内丸山遺跡から弁柄漆(べんがらうるし)(酸化第二鉄の弁柄と漆を混合した赤色の塗料漆)を塗った高坏(たかつき)、黒漆塗深鉢(ふかばち)などが発見されたことは、わが県にも独自の漆文化があったことを一般に認知させたといってよい。縄文時代の籃胎漆器(らんたいしっき)(竹や植物を編んでカゴにしたものに漆を塗った漆器)を観察してみると、器胎の材料は無くなり塗膜だけになっていたが、その塗膜の内側の面に、幅が五ミリメートル、厚さが一ミリメートルにも満たない帯状の細長い材料が編み組まれ、器胎を形成していた痕跡が歴然と認められる。
 この技法は、今日の下地法(したじほう)とよく似ており、また、土器には赤色顔料を混ぜた漆液で施文をしたものも多数発掘されている。そして、このような縄文の漆文化は青森県に限ったことではなく、北陸・中部・関東・東北一円に広がっていたことが出土品によって知られている。
 縄文時代に続く弥生・古墳時代、さらに古代・中世においても木材、樹皮、繊維、皮革、金属など多種類の素地(そじ)に、漏水防止、防水、材料補強、形状安定などを目的として漆塗りが施され、武具・調度、日雑器などの漆工芸品が途絶えることもなく作られてきた。
 藩政成立期ころの漆工芸は、藩主が召し抱えた塗師(ぬし)や蒔絵師(まきえし)が、藩主の調度の製作、武具・馬具の装飾、寺社の建築塗装などに従事し、黒塗(くろぬり)、朱塗(しゅぬり)などの無地塗(むじぬり)を行っていたが、中央の華やかな蒔絵などには及ばない水準であった。
 津軽信政は、江戸をはじめ他藩の漆工技術の高さを知り、その技術移入と漆産業育成の必要から大野山六郎左衛門大江宇右衛門池田源兵衛らの塗師蒔絵師山野井四郎右衛門梅原十兵衛らを新規に召し抱えた。この後、津軽における漆工芸の流れは、池田源兵衛とその子孫が主流となって展開された。