黒塗、朱塗、蒔絵に加わった変わり塗

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源太郎改め二代目源兵衛が帰国した元禄十七年(一七〇四)当時は、「一、四ッ御椀 外黒塗内朱 鶴亀松竹、一、御鉢 外黒塗 内朱、一、御盆 内外共朱」(「国日記」元禄十七年正月二十九日条)と書かれ、黒塗朱塗に漆絵か蒔絵が加飾された程度であった。しかし本格的に活動を始めたと思われる後の正徳四年(一七一四)には、「一、くわんにうぬり 丸御たばこ入 拾 池田源兵衛作、一、下婦(しもふ)りぬり 丸御たばこ入 拾 池田源兵衛作、一、ひら作塗 丸御たばこ入 弐拾 原田伝右衛門作、一、黒ぬり 丸たばこ入 弐拾 池田治郎左衛門作」(同前正徳四年三月十九日条)と書かれ新しい技法の導入がみられる。特にこの記事は三人の塗師に二〇個ずつのたばこ入れを変わり塗と無地塗という異なった技法で塗らせ、塗師の技量と技法の違いを比較検討したものと考えられる。この結果、変わり塗のたばこ入れが好まれたのか、正徳六年(一七一六)、江戸屋敷からたばこ入れ七〇個に、一四種類の異なる文様で仕上げるように依頼を受け、これに応じた。
 正徳四年に書かれた「貫入塗(かんにゅうぬり)」の技法は、ひび塗ともいわれ、半乾きの漆塗膜の上に、卵白に水をいれたものを軟かい刷毛(はけ)で塗って乾燥させてひびを作り、これを文様として仕上げたものである(佐藤武司「津軽塗」『人づくり風土記2 青森』一九九二年 農村漁村文化協会刊)。
 「霜降塗(しもふりぬり)」は、粘度の高い黒漆(絞漆(しぼうるし)という)を塗り、塗膜が硬化しないうちに、布目のようにみえるように、刷毛を垂直にして細かにたたいて、霜降り布地の感じが出るよう仕上げる技法である(同前)。
 「紋虫喰塗(もんむしくいぬり)」には数種の技法がある。その中の一つは、黒漆を塗り、この濡れ塗膜面に籾殻を蒔き、乾燥後、籾殻を払い落とし、漆を塗り、研いで平滑にし、磨いて仕上げる技法である。他の技法は、下塗りして研いだ塗り面に砥の粉を混ぜた錆漆(さびうるし)を、穴のあいた篦(へら)で叩きつけるように塗り、虫が喰ったような感じにみせ、軽く研いだ後に素黒目(すぐるめ)漆(油分の入っていない精製漆)を塗り、さらに黒漆で仕上げるものである(同前)。
 源兵衛が津軽において漆器製作にいた三つの技法を取り上げてみたが、これらの漆器は現在みることはできない。紋虫喰塗の篦の使は今日の唐塗技法へ導入され、仕掛け篦へと発展することになった。
 この時に塗られた変わり塗技法は、かん入塗・霜降塗古手塗色蒔絵利休唐塗松葉いろいろ布目摺はがしくりの手塗梅かえ塗唐塗色紙塗・紋虫喰塗平瀧土塗などであった(「国日記」正徳六年七月十二日条)。
 享保五年(一七二〇)に入ると、さらにみごとな漆器が津軽で製作されるようになった。木地は大工職の仁兵衛が作り、これに源兵衛が唐もどき塗落葉塗・紋虫喰塗・かん入塗・錦塗唐塗などの技法をいて仕上げを行った。また、大鰐蔵館村の木地挽佐左衛門は、江戸参勤のみやげにする丸煙草盆の製作依頼を受け、作事奉行は材料の槻(けやきの一種)を渡すように命じられ(「国日記」享保五年九月十二日条)、建部宇左衛門は、参勤前には塗り終えて仕上がりますと話している(享保六年二月十三日条)。
 塗師は、漆工品作りのほか、大工職、鳶職らと寺社の建築塗装にもかかわりを持っていた。
 宝暦三年(一七五三)、お抱え絵師泰如春・今村正元古慶は、信枚室葉従院(満天姫)の霊屋補修に必要な絵の具(本朱、膠、刷毛など)を要求し(「国日記」宝暦三年七月十五日条)、三ヵ月後、塗師小頭青海源兵衛池田長次郎丸山九八郎は、大工福岡久右衛門相馬弥左衛門内藤清八、鳶職久兵衛、源次郎、助八、久助らとともに、この霊屋の仕事に精を出したとして褒美を与えられている(同前宝暦三年十月一日条)。