(三)主要人物

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 『伝類』などによって示すと次のようになる。
 ○〈和歌匹(疋)田甫(ひきたほあん)(?~一六五五)
 新田肥後守(にったひごのかみ)次男で長左衛門(ちょうざえもん)という。正保三年(一六四六)医家として召し出され、三代藩主津軽信義(のぶよし)に仕えた。医術のほかに諸道に達し、特に和歌に優れ、信義の催す歌会には必ず出席するよう命じられ、津軽の和歌の振興に尽力するところが大きかった。
 ○〈和歌間山甚五郎祐真(まやまじんごろうゆうしん)(?~一八二五)
 土門小四郎(どもんこしろう)の次男、間山甚左衛門祐休(まやまじんざえもんゆうきゅう)の養子となる。寛政九年(一七九七)から三年間和学歌道稽古登を命じられ、歌道を京都の日野資枝(ひのすけえ)の門に学び、「古今集」以下の伝授を受け帰国した。同十一年、九代藩主津軽寧親(やすちか)の御使者番格和紀伝学頭扱となり、門人養成に尽力し、石山雅朝(いしやままさとも)・笹盛良(ささもりよし)らの俊秀を出している。
 ○〈和歌長利仲聴(おさりなかあきら)(一八二二~一九〇三)
 弘前熊野宮宮司。藩校稽古館学士取扱。父は仲好(なかよし)で実は兄。国学者・歌人。阿部仲昌(あべなかまさ)・斎藤規沖(さいとうのりおき)について神学や和歌を学び、のち歌人として藩で名声を博した。弘化二年(一八四五)一一代藩主津軽順承(ゆきつぐ)の内命を受け江戸海野遊翁(うんのゆうおう)に入門、さらに嘉永三年(一八五〇)千種有功(ちぐさありこと)について研鑽を積み、明治二年学問所教官に任じられた。同三年藩命により平田銕胤(ひらたかねたね)の門に入り、広く歌人・国学者と交遊し、また門人も数百人に及んだ。
 ○〈俳諧内海草坡(うちみそうは)(一七六一~一八三七)
 俳人。諸学に通じ、なかでも古道学(こどうがく)は津軽の嚆矢(こうし)といわれる。また書を能くし、近衛流を学んでのち一派をなし、草坡流と称された。飯詰村(いいづめむら)(現五所川原市)中屋孫七(なかやまごしち)の次男。天明二年(一七八二)酒造店、内海吉右衛門(きちえもん)の婿養子となる。通称を彦六(ひころく)。名は公民(ひろもと)。屋号は山城屋(やましろや)といい、木綿古物業を営む。寛政二年(一七九〇)、門人宮崎露牛武田玉之らを同道して石黒宗石(いしぐろそうせき)の門に入り、正風俳諧を発展させた。同九年諸国を遊歴して諸家と交わり、文政二年(一八一九)仙台藩白石(しろいし)の俳人、松窓乙二(しょうそうおつじ)(化政期の俳壇に名をなした宗匠)が来弘した時には、ともに俳諧の振興に努力することを誓いあった。三谷句仏鶴舎有節(つるやありよ)・福井蒼湖(ふくいそうこ)らはその門下である。
 ○〈俳諧三谷句仏(みたにくぶつ)(一七九四~一八六七)
 研師・俳人。三谷担斎(たんさい)の子。通称慶助(けいすけ)(慶輔とも書く)。家は御研屋で屋号を竹屋(竹谷とも書く)といった。彼は幼時から武田玉之の家で見習奉公をした。主人の玉之は、内海草坡の門人で、慶助も草坡について俳諧を学んだ。文政七年諸国を行脚し、江戸に入って俳人大窪詩仏(おおくぼしぶつ)の名に対して、自ら句仏と号を改めた。東海道から京都に入り、中国地方を経て長崎まで旅をして弘前へ帰っている。このようにして句仏の名は諸国に聞こえ、彼を訪ねて来る人もあった。天保年間(一八三〇~四四)の俳諧全盛時代には、句仏時代と称せられ、一世の巨星と仰がれたのである。門人一〇〇〇余人に及んだという。

図181.志ろう類り