天正十六年(一五八八)、為信が修復、慶長十五年(一六一〇)、信枚が再建し、社領一三石九斗余を寄進したとするが、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」(弘図津)には信義が三〇石を寄進したとみえる。
毎年六月十五日の神事には寺社奉行が出座して神楽を奏するほか、五穀成就・国家安穏の祈祷を行った(「国日記」)。正徳三年(一七一三)の再建の際は太々神楽(だいだいかぐら)を奏し、領内一人八銭の奉加を行った。神主長利氏は、八幡宮別当最勝院の支配のもと、八幡宮神主小野氏とともに社家頭を務めた。熊野宮下社家五軒は禰宜町に置かれたが、天保十二年(一八四一)に家計の困難を救うため富籤(とみくじ)発行を願い出た(同前)。
図226.熊野奥照神社