弘前士族の反発

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明治六年春から夏にかけて弘前貫属士族の起こした給禄渡しの騒擾(そうじょう)は、青森県の近代史に特筆される事件であった。この騒ぎの直接の原因は、米価の値上がりによる士族の生活難であった。このときの貫属の総代は、旧藩時代勘定奉行を務めた菊池幸八をはじめ、八木橋直世川越石太郎相馬三郎野呂精一らである。このメンバーは、この後も弘前士族の中の不平分子の中核となり、明治十四年から十五年にかけての弘前紛紜(ふんうん)事件(本節第二項参照)を起こし、十六年には陸奥帝政党結成に奔走した。彼らの中で最も活発に活動したのは川越石太郎で、彼の思想は不平弘前士族の典型であり、その時代錯誤は悲劇的である。
 川越石太郎は、維新後に戸長も務めたが、維新政府文明開化政策に反対し、旧藩主流派に怨念を抱く山田登藩主津軽承昭に批判的な一門の津軽平八郎森岡鶴翁、戊辰の功労賞に不満の山崎清良(せいりょう)ら一派のスポークスマンだった。津軽平八郎は廃刀令に反対して帯刀を止めず、山崎清良は封建復帰の建白書を旧藩主の反対を押し切って政府に提出した。明治十三年一月六日に、川越石太郎明治天皇の弘前巡幸のための民情調査にきた元老院議員佐々木高行に提出した意見書も反近代・封建復帰論である。
 川越は自分を草莽(そうもう)の臣とし、「挽回所見」を赤心を以て吐くとして列挙する。
 一、天皇を始め文武百官、古昔の服装にする。
 一、四民の別を明確にし、士族に資産を保障する。
 一、洋風建築を一切中止する。
 一、キリスト教を禁止する。
 一、徴兵令を廃し、士族兵とする。
 一、金納をやめ、米納を主とする。
 一、文明開化殖産興業策は応分とする。
 一、官省の制度や法制・礼式は旧に復する。
 この川越ら弘前不平士族の動きに対して、明治十一年の『北斗新聞』第九一号に八戸平民花輪(ママ)素の批評が載っている。彼は言う。これ迄青森県では斗南の士族今日の困難は実にいうべき言葉もないが、彼らは自立の心を確立して自活の道を得た。しかし弘前士族は常禄に甘え、安逸に馴れ、自活の精神を失い、飢餓瀕死の域に陥った。「士族先生須(すべから)ク猛省スヘシ」と。