不平の源流

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弘前不平士族の不満の第一は、維新時の藩政と廃藩後の旧藩主家の家政に参加できないことにあった。彼らは自らを正義派・勤皇派と自認していた。したがって、藩政や藩主側近がかつての佐幕派・奥羽同盟派や開化容認の人々によって占められ、王政復古の理念のもとに活躍した自分たちが新時代の舵取りから疎外されたことに名誉上も実利上も我慢できなかった。その怨念に燃えた。
 彼らの運動は執拗を極めた。明治三年夏、山田登は弘前巡回の岩男民部監督らに少参事の非を訴えて逆に説諭された。その不満ゆえ、なお秋九月に仲間三十余人をもって藩主に強訴したが受け入れられず、同年十一月兼平理左衛門ら四人が脱藩して弾正台へ県官の不正・堕落数十ヶ条を訴えた。しかし認められず、山田登は永禁固、他の四人も処罰された。山田登は明治六年幽閉を解かれて出京、在京で活躍する。このとき、一門の津軽済(尚友)が君側一変の偽情報を伝える。森岡鶴翁津軽平八郎の山田派十余人が上京、承昭に改変を強要、結局上京旅費を鰺ヶ沢方面より強請した罪により一味は取り調べられ、処分された。歴代県令は彼らに時代錯誤を説き、主流派との和解を策したが、効果なかった。彼らは頻繁に大久保利通や大隈重信など政府当事者や島津久佐々木高行、山県有朋らに建白書・上申書を送りつけた。

写真7 山田登建白「島津左大臣上言ニ付テノ議」(明治8年)

 不平派の統領山田登も派の幹部菊池幸八も、旧藩時代に勘定奉行であった。津軽平八郎森岡鶴翁津軽氏の一門であり、廃藩後の津軽藩主家に四〇万円の巨額な財産があり、生活難の士族には垂涎(すいぜん)の的だった。この運用が家令・家扶の西館孤清神盛苗によってなされたため、自派の勢力拡張に使われていると勘繰り、その利に随(したが)う者として、飯田巽(たつみ)・三浦清俊手塚義彦成田五十穂岡兵一工藤行幹櫛引英八長尾義連館山漸之進赤石行三の名を挙げ、密議に与(あずか)り、気脈を通ずる者として、本多庸一菊池九郎桜庭太次馬八木橋雲山らを川越石太郎は挙げる。
 そして、青森県難治県と言われるのは「旧君側ニ基ヒセリ」、「戊辰後、勤王佐幕ノ相分ルルニ原因シテ」と明治二年の藩政改革人事の怨を、山田登森岡鶴翁も他の多くの当事者が没してしまった明治十五年段階になおも述べたて、「旧君側今一層改良セシメテ真ノ正義者ヲ以テ主宰セシメズンバ此弊害地方ノ不幸ナラン」と自分らが青森県の近代的発展阻害の震源なのに正義者を自称し、しかも「官権ニハ正義之ニ多ク居ルモ県会ニハ反対之義多キガ如シ」、「自今已後閣下(郷田兼徳県令)ノ御撫育ニ因リ速成改良アラン」と事大主義で、官におもねり、へつらうのである。
 川越石太郎らの行動に対して、弘前の指導的立場にあった人物の一人長尾周庸は日記に次のように書いている。「七戸仲行川越石太郎等登京、御一家へ干渉の為なりとの巷説あるは怪しからぬ事也、御家門ニハ勿論無之、又従前重役勤たるにもあらず小給者也、又常に言行宜しく人望あるにもあらず、却て非望の姦人也」
 また、笹森儀助も陸羯南に、弘前紛紜事件について「小児輩と争いたくなし」、岩木山麓に新しく興した農牧社の仕事に専念したいと語っていた。