東奥義塾の再興なる

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大正三年(一九一四)三月、県立弘前中学校東奥義塾は、五〇人の卒業生を送り出したのを最後に廃校となった。経営難に陥っていた東奥義塾の管理は最初弘前市へ移管されたが、その後、市が県立工業学校を誘致する際、その校地校舎には東奥義塾を充てるという県との取り決めがなされると、これに従って市から県へ管理が移されるとともに、同年四月の工業学校の開校に伴い廃校とされたのである。藩校稽古館の流れをくみ、明治期の北方教育界において輝かしい芒(こうぼう)を放った東奥義塾は、一時その名を消すことになった。
 東奥義塾が公立へ移されたのは、わが国経済界の不況による経営難が拍車をかけたのである。しかし、第一次世界大戦が勃発すると、これによってわが国の産業経済は息を吹き返し、好況の波に乗って、普通中学校への進学率も目にみえて向上してきた。
 このころ、米国メソジスト・ミッション(伝道協会)は、札幌に学校を建設する計画を立てていたが、日本在留のメソジスト宣教師団が、札幌よりも弘前の方が適地であると教会本部に答申したことで、にわかに弘前がミッション・スクールの最有力候補地に浮上してきたのである。メソジスト派に属する弘前教会が、東奥義塾出身者によって創設されたことや、かねてから東奥義塾の廃校に同情を寄せていたことも目に見えない力となって、義塾の再興を熱望していた人々の訴えが実を結んだといってもよいだろう。
 東奥義塾関係者とメソジスト・ミッションの間に立って交渉をまとめた立役者は宣教師のC・アイグルハートであった。その結果、東奥義塾育英会(財団法人、校地の所有者)は旧義塾の校地校舎を無条件で提供することで合意が成立した。ところが、校地校舎の返還に県から待ったがかかった。『東奥義塾再興十年史』は次のように記している。
大正八年十一月十七日米メソジスト監督教会監督ヘルバート・ウェルチ外一行は青森県知事道岡秀彦等と面会し「従来東奥義塾育英会所有に関わる校地校舎をば青森県立工業学校に無償にて使用せしめて来たが、此度東奥義塾を再興する事になったので校地校舎は再興の東奥義塾に向って所有者より提供する事になったから、県立工業学校を他に移転するように」との申し出を為した。然るに道岡英彦はその校舎は所有者たる東奥義塾育英会東奥義塾に寄付の意志の有無に係らず県は之を永久に借用する権利を有すると主張し、茲に東奥義塾育英会理事者との間に非常なる意志の疎隔と感情の激発とさへ起した。

 その後、県と義塾との交渉は進まず、両者の意見は平行線をたどるばかりであった。結局、多少の曲折はあったが、県が返還する代わりに要求した移転費用等として、弘前市と合わせ一〇万円を寄付することで決着したのである。大正九年(一九二〇)十一月のことであった。義塾再興の最大の難関はこれをもって落着し、新生義塾の建設はいよいよ具体的段階に入ることになった。
 再興の東奥義塾の塾長に選ばれたのは米国のデンバーに滞在していた笹森順造であった。大正十一年一月義塾からの要請を快諾した笹森は、すぐさま帰国した。そして蔵主町の角にあった弘前市公会堂を市から借り受けて仮校舎とし、四月七日に開校式を行った。下白銀町の校舎(現追手門広場)に復したのは、県立工業学校が馬屋町の新校舎に移って旧義塾の校舎を明けてからである。

写真183 東奥義塾再興当時の授業風景
(大正11年)

 ここで特筆すべきことは、義塾では石郷岡弘前市長や市内の小学校長らを招いて、新入生の入学選抜について諮問したことである。当時は中等学校への進学希望者が激増し、各小学校では受験のための補習に追われ、ようやくその弊害が問題となりつつあった。諮問によって答申された意見を採り入れ、義塾では、入学の選抜に当たって、小学校長の成績証明書と身体検査及び口頭試問だけとしたのである。
 この思い切った選抜方法によって入学した再興義塾の一回生からは優れた人材が輩出している。教育界では今井富士雄羽賀与七郎、塾長を務めた新谷武四郎、医師の鳴海修、直木賞作家の今官一、「津軽の旋律」で郷土の音素材による作曲をした木村繁など、多士済々である。短い期間ではあったが、国漢教師として招聘された福士幸次郎の存在も忘れてはならない。「地方主義」を標榜していた福士は、口語自由詩の詩人としてすでに著名であったが、講師としての給料が高すぎるから減じてくれと、自分から笹森塾長に申し入れたという。この申し出にはさすがの塾長もその処置に窮したという話が伝えられている。
 再興東奥義塾は私立学校令によったが、礼拝への出席はさておき、笹森塾長は市民教育にも意を用い、英語夜学校を開設し、外人宣教師アイグルハートやF・シャクロック、同校の教師を総動員して教授に当たらせている。また、平内町浅所海岸で水泳講習会を開くなど、公立では考えられない活動もした。このころ、陸軍大臣から在学中の徴兵延期、卒業後の陸軍幹部候補生としての資格が与えられるなど、公立中学校と同じ条件の資格や特典が認められ、全く対等となったのである。
 大正十一年の再出発以来、いろいろな困難を乗り越え、独特な校風によって地方教育界に新風を吹き込んだ義塾が、昭和二年三月再びついに第一回の卒業生を世に送ることになった。再興義塾はミッションであったから、日ごとの礼拝を行ったのは当然として、語学を重視しての外国人教師による英会話の必修、一年から五年までの音楽の履修など、当時他の中学校では考えられない新企画の授業をした。一方では、剣道を正課として、尚武の気風を培うことにもその自負は現れており、新しい構想を通して、新生東奥義塾は意気軒昂たるものが満ちあふれていた。