弘前市総合開発計画(昭和五十三年計画)の策定

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昭和五十二年(一九七七)に、昭和四十五年立案の総合開発計画を見直しすることにした。その結果、新たな弘前市総合開発計画が策定されることになった。その骨格は次のように説明されている。
弘前市は、六十年から六十五年までを展望した給合開発計画を、この十二月中に策定する方針で作業を進めている。市は、六十年時点で人口フレームが一八万七〇〇〇人、経済フレーム(市内純生産高)は約三〇五七億円としている。これをたたき台に、庁内の各部でそれぞれの計画づくりを進めている。これと並行して、市民の世論調査を実施、これを参考に同市総合開発審議会に諮問する市の素案を策定、人口・経済フレームともわずかながらも変動の可能性はある。いずれにしても、同計画は市の将来の姿を探るものだけに、その内容が注目される。
(前掲『弘前市企画史』)

 それまでの総合開発基本計画では、六十年の総人口は二〇万人とし、純生産高は、四七六九億八〇〇〇万円となっており、新しい計画はこれを下方に修正したものである。

写真221 総合開発審議会(昭和53年7月6日)

 新しい計画の産業政策は、高度経済成長の低成長化を前提として策定されている。まず、農業に関しては、昭和五十年(一九七五)の農業純生産は二二七億円で、市内純生産額の一四・五%である。この間、昭和四十五年からの伸びは二・五九倍で、製造業や卸小売業よりも高い伸びを示した(農業は二・五九倍、製造業は二・二六倍、卸小売業は一・九一倍である。同前)。この高い伸びは農産物価格の上昇や品種改良によってもたらされたものである。しかしながら、このような伸びがあるにもかかわらず、就業者一人当たりの生産額は昭和五十年(一九七五)には一〇六万円で、工業の労働生産性の二一六万円とかなりの格差がある(弘前市『弘前市総合開発計画』一九七八年)。
 農業についての基本計画では、農業の役割と位置づけが次のように規定されている。
 我々が迎える昭和五十年代後半以降は、世界経済との調和の中で、苦悩と努力の連続であろう。農業の分野においても、貿易の促進と輸入自由化の厳しい情勢の中で、今後長期に亘ってその発展を期するためには、水田利用再編対策を中心とする国の総合食糧政策に基づく自給率の向上及び経済運営の方向を踏まえつつ、昭和五十年代後半に直面すると予想される県内の高速交通体系の完成や異常気象下における様々な条件の変化に対応して、生産基盤の整備開発、農業生産の再編、中核農家の育成と生産の組織化による生産体制の整備、産地形成の促進と流通機構の改善、合理化等により食糧供給基地としての体質、機能を強化する政策的努力を継続実施していかなければならない。
 昭和六十年における本市の農業純生産額は三四一億円(粗生産額は四八八億円)となり、昭和五十年純生産額二二七億円(粗生産額は三二四億円)の一・五倍になるものと見込まれるが、他産業との格差は依然として残る。しかし、「経済的な豊かさ」のみが人びとの生活を潤すものではなく、農村地域社会の環境整備を推進し、安定的な体質をもつ農業と若者とに魅力ある健全な農村社会の実現によって、そこには「真の豊かさ」が培われるのである。
(同前)

 このために、生活基盤の整備開発として、①優良農地の保全と利用増進、②農用地の開発、③土地改良事業の推進、④農道の整備、⑤総合地力対策の推進を行い、また、生産体制の整備として、①中核的担い手の育成、②複合経営と生産団地の形成を具体化するほか、作目別生産の振興として、①稲作、②りんご、③野菜、④畜産を重点にし、そのほか、農業金融の充実、農業団体の育成、農村生活基盤の整備、農畜産物の流通の合理化が課題とされた。
 工業に関しては、弘前市の工業の体質がきわめて弱く、一事業所当たりの従業員数が一一・七人と零細であり、従業員一人当たりの出荷額が五一〇万円と青森県平均の六四・六%にとどまっていることを出発点とし、基盤整備、中小企業の振興、企業誘致、県工業試験場の整備促進、職業訓練等が基本計画の事項として掲げられている。このうち、基盤整備としては、和徳(現、北和徳)工業団地の環境整備が主要施策とされている。計画の目標は表54のとおりである。
表54 工業振興計画の目標(昭和53年案)
区分50年60年年平均伸び率(%)
工業出荷額(億円)3839729.7
純生産(億円)1343319.4
就業者数(人)6,2008,3003.0
労働生産性(万円)2163996.3
工業用地(ha)861384.8
弘前市『弘前市総合開発計画』昭和53年
注)就業者数は、国勢調査ベースによる。工業統計は属地調査であり、国勢調査は属人であることから、就業者数は異なる。

 商業に関しては、東北自動車道の開通や大・中規模店の進出・拡大があり、地元商業者にとって、変化要因を抱えているという現状認識のもとで、従来の商法から脱却し、近代的な感覚による経営が求められているとしている。この時期の商業の変化は表55のとおりである。
表55 商業の推移
産業分類41年51年対41年指数
商店数従業者数商品販売額(百万円)商店数従業者数商品販売額(百万円)商店数従業者数商品販売額(百万円)
総数33,28114,73856,3884,56620,547280,137139.2139.4496.8
卸売業4234,63736,1315555,108171,893131.2110.2475.7
小売業2,85810,10120,2584,01115,439108,244140.3152.8534.3
うち飲食業6302,3131,4891,3614,1129,948216.0177.8668.1
対県割合(%)総数11.815.016.112.714.813.3   
卸売業14.817.116.314.815.012.6  
小売業11.514.215.812.514.714.6  
飲食店13.715.216.215.215.615.6   
弘前市『弘前市総合開発計画』昭和53年

 基本計画としては以下の事項が掲げられている。
 ①国鉄駅舎の改築促進、②商店街の近代化、③中小商業の振興、④生鮮食料品市場の整備、⑤流通団地の造成、⑥雇用環境の改善、⑦商工団体の強化、⑧消費者対策の推進、⑨物産の販売拡張
 弘前市の商業のうち、卸売業は、昭和五十一年(一九七六)時点で、商店数五五五、商品販売額は一七一九億円で、昭和四十一年(一九六六)と対比すると、商店数で一三二、従業員数で四七一人の増加となっている。従業員一人当たりの販売額は七七九万円から三三六五万円へと四・三倍になった。こうした伸びにもかかわらず、青森県全体に占めるシェアでは、商店数は一四・八%、従業員数は一五・〇%、商品販売額は一二・六%であり、一〇年前と対比して、青森県全体に占める比率は、従業員数で二・一ポイント、商品販売額では三・七ポイント低下している。こうした数値は、青森市に卸売業の大規模商店が集中したことの反映である。
 小売業については、昭和五十一年(一九七六)時点で、商店数は四〇一一、従業員数は一万五四三九人、商品販売額は一〇八二億円である。昭和四十一年(一九六六)と対比すると、商店数は一一五三店、従業員数は五三三八人、商品販売額は八八〇億円増加した。小売業は、青森県全体に占めるシェアでも、商店数で一二・五%、従業員数で一四・七%で、昭和四十一年時点より、それぞれ一・〇ポイント、〇・五ポイント増加した。また、商品販売額は一四・六%で、一〇年前より一・二ポイントシェアが減少した。弘前市の小売業の特徴は飲食店の比率が高いことである。店数は昭和四十一年時点での六三〇(県の二二%)から、昭和五十一年の一三六一店(県の三四%)に増加しており、販売額でも同様に伸びている(同前)。
 商店街については、土手町商店街が集客力があるのに対し、駅前商店街の整備が遅れていた。しかし、大型店の進出に伴い、顧客の吸引力が増してきている。
 昭和五十一年時点で、卸売市場としては青果物につき、三つの市場があり、すべて民営であり、そのうちの二つはりんごの産地市場である。水産物については一三の問屋があり、いずれも相対取引が主であった。
 弘前市総合開発計画は、以上のほかに、観光にも重点を置いていた。弘前市は春のさくらまつり、夏のねぷたまつり、秋の菊ともみじまつり、冬の雪燈籠まつりが四大祭りであり、年間に四〇〇万人の観光客が訪れていた。