弘前市内外で水道問題を考慮していた背景には、昭和三十二年六月十五日、国が法律第一七六号で水道法を制定したことにも大きく関係していた。この法律は「水道を計画的に整備」することで「清浄にして豊富低廉な水の供給を図り、もって公衆衛生の向上と生活環境の改善とに寄与することを目的」としていた。敗戦後の占領期にGHQが動員した衛生観念の向上は、水道施設に関する限り、市町村合併前後に本格化したと見てよいだろう。
昭和二十九年以降、浄水場は樋の口地区にあり、近くを流れる岩木川に取水堰がある。昭和三十三年の大水害で取水堰は甚大な被害に遭った。そのため岩木川を中心に農業水利再編成の気運が高まった。浄水場は単に飲料水や家庭で使う水道用水の問題だけではなかった。農業を中心としてきた弘前市にとって、農業用水を確保することは至上命題だった。当然灌漑設備や開拓・開発政策への問題も生じたが、市民の上水道を確保するために浄水場を整備することは、市当局にとっても無視できないものがあった。
写真241 樋の口浄水場の風景
上水道供給事業は、単に衛生対策の視点からだけでなく、環境・景観に配慮した施設の確保も求められてきている。貴重な水を確保するための取水堰や浄水場周辺に関しては、水利・土壌の清潔さを保つための配慮だけでなく、施設周辺自体の景観そのものをも重視する政策が必要とされてきている。大正期に作られた青森市横内の浄水場は、今もなお美しい景観を保っており、隠れた桜の名所でもある。樋の口の取水堰もその眺めは美しい。平成十四年(二〇〇二)七月三十一日に、樋の口と岩木町真土を結ぶ茜橋が開通した。とくに茜橋から眺める取水堰は、右手背後に岩木山と津軽平野、前面に岩木川の広い河川敷を控え、景観としても大変美しい。
水道は河川、湖沼を水源地とするため、一地域だけの問題では済まなかった。費用負担、設備維持など、莫大な費用と人員を必要とするため、地方自治問題からも検討課題は多い。弘前市周辺地区では、なんといっても岩木川・浅瀬石川水系が水源となる以上、両河岸地域の協力が必要である。昭和四十九年(一九七四)三月十四日、弘前市では、それまで岩木川本川だけに頼っていた水源を、いま一つ別に浅瀬石川にも求め、その水道用水供給事業に関する事務を共同処理するため、浅瀬石ダム水道企業団(現津軽広域水道企業団)の設置を要請する案を市議会に提出した。企業団は弘前市をはじめ、黒石・五所川原各市、藤崎・尾上・浪岡・平賀・板柳・鶴田の各町、常盤・田舎館各村で構成された。事務所は、最初弘前市に置かれたが、のち黒石市に移り、企業長を弘前市長とし、その他の市町村長が企業団議員である。その後、浅瀬石ダム(のち浅瀬石川ダムと改称)の完成をまち、昭和六十三年十一月一日から給水が開始された。