顯本寺は常住山と號し、【位置】宿院町東三丁字寺町にあり、日蓮宗八品派本能、本興兩寺末であつたが、明治四十三年五月本門法華宗尼ヶ崎本興寺末となつた。寺格關西末頭永聖跡。【沿革】永享、嘉吉の頃精進院日隆尼ヶ崎本興寺に、妙宗を弘通し、(本化別頭佛祖統記)屢々堺にも來化の際、木屋某、餝屋某等自宅を轉じて法華堂を建てた。これ卽ち當寺の起源である。斯して日隆の法弟日淨を開山としたのは寶德二年のことであつた。(兩山歷譜)一説に眞言宗大顯寺の僧某法弟となり、寺檀を擧げて同宗に歸し、名を本成院日淨、寺を顯本寺と改めた。時に寶德三年であつたと云つてゐる。(高三過去帳)偶々大隅種ヶ島西之表藏の律僧(或は法相宗とも云ふ)の碩德、義賢坊林應南都北嶺に學び、將に歸國せんとし、堺に來り、日隆の教化を聞き、本興寺に到つて講莚に列なり、遂に本宗に歸した。林應、後日、隅、薩の三州に亙つて百有餘箇の寺院を興こし當寺に屬せしめたが、後擧げて本能、本興兩山に攝屬することゝなつた。(兩山歷譜、大日本寺院總覺)享祿五年本願寺の門徒細川晴元に黨して、【三好元長の自殺】三好元長を堺に攻め六月元長戰ひ利あらず、當寺に入つて自殺した。元長の血痕は其後久しく殘存して居たと傳へられてゐる。當時寺地は今の甲斐町山ノ口にあり、百有餘の末寺と幾多の子院を擁してゐた。(高三過去帳)【禁制狀】寬正五年三月には刑部少輔、文明五年九月には右衞門尉、天文十五年八月には河内守各禁制狀を寄せ、(各禁制狀)又同二十四年二月には安宅冬康亦前例に違はざる旨の書狀を寄せて居る。(冬康書狀)斯して後元和中當住日典地を當所に移して之を再興した。(顯本寺調査書)【朱印寺領】これより先き、豐臣秀吉は寺領二十七石の朱印を寄せ、德川幕府に至つても舊に倣つたが、(各朱印狀)明治四年正月上地した。歌謠の達人隆達の寓居した塔頭高三坊は、何時の頃よりか其名を失し、【舊塔頭】元祿十四年五月の記錄には法泉、實教、遠住、圓澄、本勝の五支坊の名あり、(諸尊彩色幷佛具寄附帳)寶永元年六月には實教坊は實教院、遠住坊は遠壽院となり、法泉坊に代るに治定坊の名がある。(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)享保十五年正月の記錄には寺家五軒として、實教院、法壽坊、治定坊跡、眞了院、善妙坊の名があり、(年中行事控)寬政十一年六月には四個の塔頭がある。(當寺境内幷坪數繪圖)然して當寺は末刹兩本山に歸屬して以來、萎靡して振はず、維新後堂宇荒廢し、成證、自成、實教、舜怡四支坊の遺址のみを存し、現在の庫裏は子坊慈高院のものである。(明治二年願書)【本尊】本尊は題目寶塔、釋迦、多寶二佛、上行、無邊行、淨行、安立行の四菩薩、持國、廣目、毘沙門、增長の四天王、不動及び愛染の二明王で、【堂宇】本堂庫裏、鐘樓、部屋、納家、門の外に、祖師堂、自佛堂、三光堂あり、境内二千四百八十六坪餘。(社寺明細帳)【什寶】什寶には刑部少輔、以下の各禁制狀、安宅冬康書狀、織田信長朱印狀、蓮如消息二幅、傳豐臣秀吉所用茶辨當一揃等がある。【墓碑】境内三好元長の墓碑は、高さ二尺の五輪塔で、表面に歸本海雲善室大居士、裏面に天文二癸巳六月二十日とある。卽ち其一周忌に建てられたものであらう。又高三隆達の墓には、自在院隆達、慶長十六子十一月二十五日、當院開山年八十五と刻されてゐる。猶其外に由良箕山の墓碑がある。