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(一)開口神社

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 【所在地】府社開口神社は甲斐町東一丁に鎭座し、大小路以南の總氏神である。【境域】周圍東西六十六間四八寸南北六十六間四五寸、土塀を繞し、四方に門を附して西を表とし、表門より西山之口筋迄延長十三間二四寸の馬場先を設け、其總坪數四千四百三十四坪六合の境域である。(開口神社實測圖)神佛混合時代には別當念佛寺の通稱によつて大寺と呼ばれ、今猶ほ一般に大寺の稱を存してゐる。【馬場先】馬場先は中央三間幅の敷石で、其外側に石玉垣を亙し、石鳥居を距てゝ東端に瓦葺四足の表門がある。表門と東方拜殿との間にはくの字型の鋪道があり、鋪道西寄の北方に神苑がある。【神苑】神苑は廣汎の區域に亙り、櫻樹其他の植込を設け、鑄銅製の神馬を置いてある。前記鋪道を東に進み、西門番所の前方を過ぎて程なく南側に鋪道があり、其南端の社務所表門を見つゝ猶ほ東に進めば、右側に寶庫があり、寶庫の東側に繪馬堂がある。【繪馬堂】繪馬堂は桁行八間一五寸、梁行四間四五寸の瓦葺層樓で、一見樓閣の觀あるは大寺と稱した頃に樓門として建てたのを堺奉行の反對で繪馬堂とした爲めである。(開口神社營造物臺帳)繪馬堂の南、社務所に東隣して瑞祥閣表門があり、東北隅の北、繪馬堂の東に三重塔がある。【三重塔】三重塔は六間四方の瓦葺で、明治初年撤却されんとしたが河盛仁平之を購ひ、其儘保存されて今日に至つたものである。三重塔の北、鋪道の北方には南面して琴平、舳松の兩末社がある。【琴平神社琴平神社は桁行三四寸、梁行四五寸の社殿と桁行二間五、梁行二間一四寸の拜殿とを有し、【舳松神社舳松神社はもと寺地町東三丁大阿彌陀經寺境内にあつたが、明治四十年五月合併移轉したものである。舳松神社の東方にさゝやかな植込があり、植込の北、舳松、琴平兩社及び神苑の北一帶に堺市立第一幼稚園がある。又植込の南、鋪道の傍に開口神社の碑が建てられてゐる。碑の東方は拜殿前の廣場で拜殿左右兩端より開口神社碑の東隣鋪道の兩側に跨つて瑞籬を亙し、瑞籬内北寄に老樟と末社荒神社がある。【老樟】老樟は昔三浦坊なる天狗の常住して飛行したとの傳説ある樹木で(大寺緣起)高さ十數間、廻り三抱を有し、【楠本神社】枝間に祭神不詳末社楠本神社の小祠がある。【荒神社荒神社は老樟の下に西面し、桁行五二寸、梁行一間の社殿を有し、東方拜殿前の左右には狛犬を据ゑ、左側狛犬の傍に式内開口神社の標石が立つてゐる。【拜殿】社殿は檜皮葺權現造で拜殿は桁行六間三、梁行三間三、千鳥破風を附し、唐破風の向拜がある。拜殿内部の正面には近衞篤麿公筆社號扁額を揭げ、左右脇殿の板戸各二枚には極彩で太平樂庭燎神樂が描かれ、其奧には建續きの幣殿、本殿が微かに拜される。拜殿外部の後方より兩端に幣殿、本殿を繞らした瑞籬があり、瑞籬中幣殿の畔には左右共に唐門を附し、【幣殿】幣殿は桁行三間、梁行三間、【本殿】本殿は桁行三間、梁行二間を有し、共に天綱を垂らしてゐる。【神樂殿】又拜殿より渡廊下を以て續いた南方の神樂殿は北面桁行七間、梁行六間を有し、殿内神樂所の板戸には土佐光孚筆杉に鷺の極彩畫がある。神樂殿の西には前記三重塔の東に當つて拜殿正面の鋪道と交叉した南北の鋪道があり、其兩端に四足瓦葺の南門と北門とがある。【遙拜所】此鋪道の東、神樂殿の南方にある遙拜所は周圍に石玉垣を廻し、中央幅二間に一間餘、高さ一間餘の土壇を設け、銅葺神明造の拜所を設けてゐる。遙拜所の南方、南門内西側に大寺餅の店舖がある。【舊連歌所】又神樂殿の東方に舊連歌所がある。西面瓦葺土塀を繞し、桁行七間五、梁行五間、現在堺彌榮會の本部に充てられてゐる。其北隣は庭園で嚴島、竈神の二社が建てられてゐる。竈神社の東北隅に隣して瓦葺四足の東門が建ち、門内北側に七末社の小祠が一列に西面してゐる。【七末社】七末社は南から惠美須、熊野、大國魂豐受姫、神明、舟玉、菅原の神社をいふ。七末社の北方に末社少彦名、稻荷、三宅、八幡、白髭の神社が南北に列んで西面してゐる。

第百三圖版 開口神社見取圖

 
 
 【影向石白髭神社の西南に影向石があり、同じく東北に末社産靈神社がある。影向石は開口神こゝに影向して、弘法大師と對談された所との傳説ある所、又白髭神社の北方より北門迄の間には納札所、神輿庫、神馬舍、末社北辰、兜、松風の三社が東西一列に南面し、神馬舍に繫いだ木彫の神馬像は幕末近衞家の寄進されたものである。【兜神社】就中兜神社宿院にあつたのを明治四十一年一月合祀し、【松風神社松風神社はもと毘沙門堂と稱したが明治初年本尊を少林寺町東三丁少林寺鎭守松風神社へ移し、同社の神體及び社名をこゝに遷し、【矛神社】明治四十年矛神社を合祀したものである。松風神社の西北隅は所謂北門で、同所より南門へ通じた舖道の中央に拜殿正面と表門とを繫ぐ鋪道がある。鋪道傳ひに繪馬堂附近に出で、【瑞祥閣】更に其南方瑞祥閣の表門を入れば、同閣の庭園となる。閣は當社の客殿、庭園を前景として瓦葺入母屋造桁行十間、梁行五間、北側西寄に玄關がある。間取は東西三室とし、西端は更に二室にに分れて、水屋、控間とし、東方の二室は大小に分れて東を上壇とし、其境界に四枚襖を嵌め、襖東側には鳳凰桐に宿る瑞祥が描かれてゐる。【八窓茶室】閣の東側には紹鷗好の八窓茶室があつて、瑞祥閣の庭園と境する爲め灌木の生籬を繞し、北方に竹の開戸を設けてゐる。開戸を排すれば、露路となり、手水鉢、石燈籠などが配置されて靜寂味を漂はせ、其突端は一間幅のにぢり口で上は鴨居に達し、其外側に一幅の付椽がある。にぢり口の奧は四疊半の茶室で、中央に爐を切り、西側北寄に床を設け、天井は葺張で南側に二四方の無性口を設けて水屋への出入口としてゐる。水屋は茶室の南に隣し、三疊を敷き、西方に袋戸棚を設け、南に書緣を附し、書緣に書院窓を切つてゐる。又瑞祥閣と緣傳ひに連絡した社務所は桁行梁行共に七間六寸を有し、庭先に泉水を湛へ、築山をしつらへ、中に茶室を設けてゐる。
 【年中行事】當社年中行事の中最も著名なものは九月十二日の秋季例大祭で、葦原濱へ神輿の渡御がある。當日布團太鼓十餘臺市内を練つて同社御旅所に赴き、行列が續く。御旅所での神事が終つた後深更に及んで還御せられるを例としてゐる。境内の名勝として明治以來神苑の櫻及び遙拜所附近の牡丹があつたが、今は殆ど其の面影を失ひ、唯月三齋二の日の市のみは依然として盛行し露店を以て境内を埋め熱閙を極むるを例としてゐる。