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十三場所の出産物

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 この時期の十三場所内の出産物を示すと、表2のようになる。これは、差荷物といって、請負人が運上金のほかに請負場所の出産物を若干納める品物をいい、金納の場合もあった。表2は、文化六年の場合であるが、十三場所中金納が六場所、納入なしが二場所、品物で納めたのがハッサム、下ユウバリ上カバタ下カバタの四場所であり、トクヒラについては、差荷物の内訳が示されていない。品物の数は、七品から多いところでは上カバタのように一九品におよぶところもある。まず海産物では、魚油、干鮭(からさけ)、鯡切込(にしんきりこみ)、身欠鯡鮓、数子、白子、串貝、干鱈、塩引、筋子、披、切漬の類である。陸の産物では、防風漬、厚子(アツシ)、椛皮、椎茸、蝦夷苫(とま)、塩蕗といった類である。いずれもアイヌの交易品である。
表-2 イシカリ十三場所出産物(文化6年)
場所名差荷物
トクヒラ差荷物
ハッサム魚油2斗入1樽、干7束、鯡切込2斗入1樽、防風漬2樽、数子10貫目、身欠鯡2,500入1本
上サッポロ差荷物(7両2分)
下サッポロ差荷物(5両)
シノロ差荷物(5両2分)
上ツイシカリ差荷物(2両)
下ツイシカリ差荷物(金納)
上ユウバリ差荷物(なし)
下ユウバリ3束、鮓2斗入2樽、身欠4,800、魚油2斗入2樽、厚子5枚、防風漬2斗入1樽、椛皮20枚結5把
上カバタ鯡鮓2斗入5樽、鯡切込2斗入5樽、身欠2,500入4本、数子20貫入3本、白子20貫目入3本、干50束、厚子縫付20枚、魚油2斗入7樽、椎茸2,000、蝦夷苫20枚、串貝7束、干鱈20本結10束、防風漬2斗入3樽、塩蕗2斗入2樽、塩引10束、筋子2斗入5樽、披10束、椛皮20束、切漬5樽
下カバタ15束、鯡鮓2斗入2樽、鯡切込2斗入1樽、身欠鯡5,000、干鱈7束、魚油2斗入3樽、厚子7枚、蝦夷苫3枚
シママップ差荷物(金納)
ナイホ差荷物(なし)
『村鑑下組長』(松前藩松前 25号)より作成。

 ところで、以上の差荷物のなかに鯡が多く入ってきていることに気付く。元文四年(一七三九)の『蝦夷商賈聞書』では、「干沢山」と、干が第一であったが、天明末~寛政初年の『松前随商録』では、「鰊、干、鱒、梠縄、椛皮、鷹、鵰、鷲之羽、隼、熊胆、雑魚、秋味之類」という具合に、鯡が筆頭にあげられている。そして、文化四年(一八〇七)の『西蝦夷地日記』では、運上金については、「右運上金は鯡から等のよし」と記すとともに、トクヒラ場所のところには、「鯡取図合弐艘はヲタルナイへ追取に行よし」とあって、一~二艘ずつ各場所の所有となっていることまで記している。十三場所のアイヌたちは、イシカリ場所外まで鯡漁出稼に行かされ、その漁獲物は十三場所の出産とされた。前述した文化四年の近藤重蔵の『書付』にも、「ヲタルナイヨリイシカリ迄の間レブンヌツカト申処迄ニ鯡取小屋二三百ケ所ハ立続キ有之。此人数凡二千有余人(中略)イシカリ十三ケ所夷人モ早春鯡取ニ同処へ集リ候儀ニテ」とあって、十三場所のアイヌ出稼に集まってくることを記している。鯡漁出稼のかたちで、アイヌの労働力の集約的使用が開始されているのが知られる。このようなイシカリ十三場所外、つまり他場所へのアイヌの労働力の使用は、まさにこの時期から頻繁にみられる現象になったといえよう。