この時期の十三場所内の出産物を示すと、表2のようになる。これは、
差荷物といって、請負人が
運上金のほかに請負場所の出産物を若干納める品物をいい、金納の場合もあった。表2は、文化六年の場合であるが、十三場所中金納が六場所、納入なしが二場所、品物で納めたのがハッサム、
下ユウバリ、
上カバタ、
下カバタの四場所であり、トクヒラについては、
差荷物の内訳が示されていない。品物の数は、七品から多いところでは
上カバタのように一九品におよぶところもある。まず海産物では、魚油、
干鮭(からさけ)、
鯡切込(にしんきりこみ)、
身欠鯡、
鮭鮓、数子、白子、串貝、干鱈、
鮭塩引、筋子、
鮭披、
鮭切漬の類である。陸の産物では、防風漬、厚子(アツシ)、椛皮、椎茸、蝦夷苫(とま)、塩蕗といった類である。いずれも
アイヌの交易品である。
ところで、以上の
差荷物のなかに鯡が多く入ってきていることに気付く。元文四年(一七三九)の『
蝦夷商賈聞書』では、「干
鮭沢山」と、干
鮭が第一であったが、天明末~寛政初年の『
松前随商録』では、「鰊、干
鮭、鱒、梠縄、椛皮、鷹、鵰、鷲之羽、隼、熊胆、雑魚、
秋味之類」という具合に、鯡が筆頭にあげられている。そして、文化四年(一八〇七)の『
西蝦夷地日記』では、
運上金については、「右
運上金は鯡から
鮭等のよし」と記すとともに、
トクヒラ場所のところには、「鯡取図合弐艘
鮭はヲタルナイへ追
鮭取に行よし」とあって、一~二艘ずつ各場所の所有となっていることまで記している。十三場所の
アイヌたちは、
イシカリ場所外まで
鯡漁の
出稼に行かされ、その漁獲物は十三場所の出産とされた。前述した文化四年の
近藤重蔵の『書付』にも、「ヲタルナイヨリイシカリ迄の間レブンヌツカト申処迄ニ鯡取小屋二三百ケ所ハ立続キ有之。此人数凡二千有余人(中略)イシカリ十三ケ所夷人モ早春鯡取ニ同処へ集リ候儀ニテ」とあって、十三場所の
アイヌが
出稼に集まってくることを記している。
鯡漁出稼のかたちで、
アイヌの労働力の集約的使用が開始されているのが知られる。このようなイシカリ十三場所外、つまり他場所への
アイヌの労働力の使用は、まさにこの時期から頻繁にみられる現象になったといえよう。