文化四年八月、幕府若年寄堀田摂津守は、ロシア船の前年来のカラフト・千島襲撃がついにリシリ島にまでおよんだことから、リシリ島辺までの見廻りを、小普請方近藤重蔵、鷹野方山田忠兵衛、小人目付田草川伝次郎らに命じた。この一行のうち田草川伝次郎が『西蝦夷地日記』を記したことは前述したが、西海岸の帰途イシカリからシコツ越えをしているので、次に掲げてみよう。
(十月十日) | |
一 | 朝五時頃イシカリ出船川筋上る。船中にて昼弁当。トウベツより少し行日暮。夜九時過ツエシカリへ着泊。小家にて食事いたし明日食物仕入等同所にて為致暁七時出来に付同所出船[両人にて図合一艘。](中略) |
一 | イシカリ川筋左右山不見一円平地林木茂り川岸川柳一円有之。折々鮭漁小屋あり。是はイシカリ川口よりサツポロ迄之間川丈け百里余之蝦夷集り鮭漁の所のよし。秋味荷物積出し夫より銘々食料を取干上げ追々本宅へ戻る。此節もいまだ漁小屋に居るものも有之。今日も帰舟多有之。 |
一 | 石狩川筋右之方に川尻有之分。 ハツシヤブ サツポロ [ ](本ノママ) トウベツ其外夷家あり ツエシカリ ツエシカリ泊小屋は川尻より余程先左にあり。左には川無し。 |
一 | 行程凡十一二り くり舟にても短日之頃は朝六時頃より出精候ても夜に入よし。 |
一 | ツエシカリ泊小屋は石狩より建しよし誠之小屋也。 十月十一日己卯 [晴昼前より雨夜中不止寒風無之] |
一 | 明け七時頃ツエシカリ出船イベツブトより夜明。シユママツケ辺にて日入。夜九時頃に至り雨強風も出蝦夷人こゞえ難儀之由に付川岸に船繫ぎ岡にて火を焚夷人番人等夜を明す。 但船中にて昼食は致す。夜食は焚所無之に付不食。 |
一 | ツエシカリより一り程行右ヘイベツブト川筋へ曲る。川尻にては巾四五十間あり。追々細く成水は深し。此川筋左右とも石狩川同断。両川とも川中立木流還り所々有之舟路六ケ敷。 但ブトは川尻之事也。 |
一 | イベツ川左にユウバリ川尻あり。右にシユママツプ川尻あり。夫より繫船之所迄枝川無之。 |
一 | 行程繫船之所迄凡十二三り。 十月十二日庚辰 [雨暁少々雪降風無之寒] |
一 | 六時頃繫船之所より出船暫行。イチヤリブト泊家より番人迎舟にて来。昨夜来候所行違ひシユママツケ迄行引返し候由申聞。朝(ママ)五時過イチヤリブトへ着。泊家へ止宿。 |
但イチヤリブよりユウブツ □(本ノママ) なり。シコツ[千年川とも云]会所より番人来。取扱平生は明家のよし。然ども大成家作にて玄関座敷も二間次之間も三ケ所程勝手広く道中本陣風之作り也。 | |
一 | イベツ川筋右に枝川イチヤリブトと云ふ。直に川口に泊家あり。 |
一 | イベツ川上はシコツの沼のよし。 |
一 | 行程二り程。 |
一 | シコツ迄陸路有之旨石狩支配人申聞候に付泊家番人に承候処野地水深く蝦夷往来も無之由。尤シコツ川尻迄は図合にて宜同所よりハシコツより川舟相廻候段申聞候に付石狩より附添来番人ヘシコツ川尻迄図合にて相越候段申渡。 |
一 | イシカリ夷人昼夜骨折候に付八人へたばこ四把遣す。 |
一 | ルルモツペカビ幷夷人壱人増水 □(本ノママ) に文右衛門ツエシカリにて残し置いづれも出精に付夷人へたばこ壱把遣す。 |
一 | イベツブトよりイチヤリブト迄川筋泊家夷家等無之。 |
一 | 石狩よりイチヤリブト迄行程。 凡二十五里。是はシコツ番人に尋同所右之通答ふ。其外石狩之もの杯に尋候ても里数不 □(本ノママ) 此里数相当なり。 十月十三日辛巳 [暁雪少降寒明より曇夕方薄晴風無之寒寛方] |
一 | 五時前イチヤリブト出船ヲサツ蝦夷乙名家にて昼弁当遣ひ同所迄石狩図合にて来。同所迄千年川よりくり舟数艘此方乗船はアクツ舟と唱来たり舟程之舟に屋根附なり。夫より右船乗替七時過千年川へ着。泊会所。 |
一 | 今日は水増有之ヲサツ迄図合相越。水少き時はヲサツ沼口より小舟のよし。 |
一 | ヲサツより千年川枝川夫より千年川上る。此川水流早夫ゆゑ図合は不通。 |
一 | 千年川は御用地に成て之名のよし。元はシコツなり。沼名川名地名とも同じ。今 □(本ノママ) 川名会所地名とも千年川。 |
一 | イベツの上シコツ沼なり。千年川はシコツ沼へ流込。 |
一 | ヲサツは沼へ落る川なり。千年川より小川也。此川少し上り夷家あり。同所にて昼休。又元の沼へ戻り千年川枝川へ入沼を行は少しなり。 |
一 | 沼長廿丁程も有之よし。横に乗切事四、五丁なり。此辺よりユウバリ山遥に見ゆ。下地之山々も遥に見え近辺一円平地景色よし。 |
一 | イベツ川上[ ](本ノママ)千年川とも左右川柳其外雑繁茂一円平地なり。イベツ川上巾広沼口狭千年川巾二、三十間位にて急流なり。 |
一 | ヲサツに蝦夷家五、六軒あり。夫より千年会所手前折々一、二軒づつ蝦夷家あり。皆鮭漁せる様子にて鮭多く竿に掛て置。 |
一 | 元シコツ川丈十六ケ場にて内壱ケ所松前家直領十五ケ所は給知之由。今会所有之所は元松前鉄五郎給地下ママツ場所之よし。猶石狩川筋之ごとくなる由支配人申聞之。 (中略) |
一 | 蝦夷惣人数千三百人程。 但諸場所入 □(本ノママ) 住居会所あり。川上重にあり。 |
一 | 産物 干鮭 七万束 五百束二、三万束又去々年は八千束位至て不同の由。 アタツ 三、四束位。 椎茸 三、四十本。 但壱本数 千年川会所支配人与四兵衛。惣通詞。 五千入 |
一 | 行程四り半程。 十月十四日壬午 [雨大降東風気寛夕方雨止申の風大に強寒強] |
一 | 五時過千年川出立。ビビ迄陸路同所番家にて小休。同所より乗船ビビブト番家にて昼弁当遣。七時前ユウプツへ着岸。泊会所。 |
このように一行は、イシカリ・ユウフツ間三五里半を五日をかけて通行している。日数をかけているだけに、一行の行程のみならず、途中の状況について観察の目が行き届いているのがうかがわれる。イシカリを出てから第一日目のツイシカリの泊小屋は、「石狩より建てし誠の小屋」であり、前年にここを通った東寗元稹がみた「草屋」ではなくなっていたし、第三日目のイザリブト泊家は、前年の遠山、村垣一行の置土産であると思われるが、本陣風の施設さえ作られていた。また、使用した川舟も、くり舟、図合舟、アクツ舟という具合に、何種類も用意されていた。それに、シコツ越えのみならず蝦夷地の通行に欠くことのできないアイヌの手伝い人についてまで目配りしているのが知られる。