イシカリを新しい生活の場とすべく来住した人々を、どう組織化し幕藩制の内なる民に秩序だてるかは重大な課題である。イシカリ役所は来住の願い出をもとに、永住人と出稼人に区分して許可を与え、前者に家別銭である四半敷役(しはんじきやく)を課し越年役は免除、後者には越年役を課すという違いはあるが、権利義務に大差はなかった。それぞれに一名ずつの惣代を置いたが、役所が任命したのか、住人の意志で選出されたのか明らかでない。永住人、出稼人ともに出稼人別帳に繰り入れられるが、宗門を書く者は少なく、家内名(家族のほか雇人厄介人など)を連記しただけのごく簡単なもので、出身地の元人別帳から抜く手続きは不要だった。
住人は当時の村民と同様、年貢を納め夫役に従わなければならなかった。前者の詳細はわからないが、改役所の廻文に「当年、御役鮭の儀は御年貢有之候間、其旨相心得、御持役人様より御立合の上御改請、当方え相納可被致もの也」(市史一三八頁)とあるので、漁業者(網持出稼人のみか)は鮭魚をもって現物納としたらしい。あるいは第三節に述べる役鮭そのものを年貢とみなしたのかも知れない。後者は道路の改修工事、役人通行の継立人足、馬飼料の草刈り、さらに役宅で使う縄の上納まで種々にわたった。文久元年(一八六一)二月、左官職人の長蔵(永住人)が「町並御人足繁敷相当り、老年の私無人にて(家族や使用人がいない)、其度に雇人足仕候得共、難渋と計り無御座候。依之奉願上候も重々恐多く奉存候得共、毎月三日つゝ以御役手間を御人足相勤、外御通行の人足の義は御免被仰渡被下置度」(市史二六九頁)と歎願しているので、夫役はかなり重い負担だったことがわかる。
これら住人をまとめていく町役人的な業務は、まず阿部屋に与えられた。改革前の元小家を本陣と改め、人馬継立を行うだけでなく、「諸願書諸届書諸場所え継立等」(市史五四頁)を兼ねることになる。すなわち「石狩中、諸願書本陣支配人の末印を以指出」(生田目氏日記)さねばならないから、阿部屋は住人と役所を結ぶ窓口となり、町役人的な地位を得たのである。
そこに、前述のように勝右衛門が浜名主を命じられた。当初は浜役と呼んだらしいが、彼の下に小廻り(又は小使)が置かれた。これは明らかな町役人だから、本陣と用務が重複し混乱を生じやすく、万延元年五月「市中願筋は勿論、何事に不寄」(市史二〇四頁)両者は相談し、両印の上イシカリ役所と協議することになった。但し、漁場や貸付については浜名主の一印でよかった。初代浜名主は文久二年交代し(あるいは前年末で解任か)、本陣守(阿部屋)も同三年願い出て任を解かれるが、また出願して翌元治元年(一八六四)再任、明治二年(一八六九)六月山田家と交代するまで続けた。なお文久三年から永住人四人が組頭となり、月行司を定め輪番で町会所に詰め、町役人業務を行うことになったが、イシカリに名主、年寄、百姓代の町三役が制度化されるのは慶応年間らしい。