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直䑺

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 その施策の第一はイシカリ場所に出入する船に直䑺(直〓ともいう)を認めたことである。すなわち、事前に沖の口役所直䑺を申し出、所定の判銭を納め免判を受けておけば、あとは沖の口を通らずイシカリと本州の売払地を直接往来してよいという便法。この特例は改革前から東蝦夷地出産のを江戸や水戸藩那珂湊等へ送る場合に認められ、安政二年奥州諸藩が蝦夷地警衛を命じられると、その必要資材は直䑺になった。また北蝦夷地の直捌経営がはじまると、その往来もまた直䑺となり、イシカリ改革直䑺はこれに準じたのである。

写真-8 平潟港(北茨城市)に入津した秋味船

 直䑺による場合、イシカリで出荷物改めをして船役銭と問屋口銭を徴収、役銭は松前藩に引き渡すことになる。船改めは文久三年テミヤに会所を開設するまでは、イシカリ改役所で切手を渡し、ホリカムイ番所で船の出入を見張ることになった。改革の初年は二五七両余の役銭がイシカリで徴収されている。荒井金助自ら、天候などを理由に漂流したことにして、直接イシカリ入津を「御指図とは申兼候へ共」(生田目氏日記)強くすすめた。
 また、改革により直捌となったので、イシカリ役所で使用する物品を運んだり、イシカリの役鮭を積み入れるために出向く船からは役銭判銭を徴収しないことにし、役鮭を積んで入港した時の入口銭も免除とする。これらの船はたて長の日の丸印の旗をかかげた。イシカリで新規の開墾をはじめる場合は、その必要資材の入口銭が免除となり、次に述べる三国屋金四郎の手船、船についても船役判銭免除が適用され、食糧、農具類の入口銭を徴収せず、船に乗って来た農夫についても役銭判銭は不要とした。これらの船にはたて長の旗で、中間が黒、その上下は白地で、下部に〝石狩〟の文字を染めた印をかかげることにした。なお沖の口税免除の一方で、イシカリ入津の船から、帆形一反につき一升ずつの米を徴収し町づくりの費用にあてる〝帆形役〟があったという(石狩場所 札幌市街 石狩町資料)。事実なら一種の入港税に類するのだろうが、詳細は不明である。
 こうした直䑺沖の口税免除とともに、江差からイシカリへの大型船による出稼積出しの許可、帆待荷物の明文化による不正取引の排除等、円滑な流通の発展をめざす改善がはかられていった。