写真-15 かつての阿部屋西浜引場 現今は行楽地になっている
阿部屋もまた茨の道をあるかなければならなかった。本陣守を続けるためにホリカモイの役鮭を三七役から半額減免され一割半役となったが、これでも経営は苦しいと訴えて、箱館産物会所から多額の融資を受け、さらに本陣守の返上を願い出たため、文久三年、イシカリ役所は阿部屋に割り渡していた鮭引場をすべて取りあげ、本陣守を願い通り差免した。あわてた阿部屋は松前藩の口添を得て箱館奉行所に願い出、翌元治元年引場と本陣守を再び許されるという混乱をみせた。慶応年間に入り、ツイシカリ辺の引場を次々他人に貸し、同四年(明治元年)自ら経営したのは大網二、小網一三の計一五統である。
徳川幕府がたおれ、新政権による箱館裁判所が設置されると、早速イシカリを請負場所にし阿部屋に請負わせてほしいと願い出るが、返事のないうちに榎本武揚率いる旧幕軍が進攻、全島平定を宣言して直捌村並のイシカリ、オタルナイ両地で請負制復活を触れ出し、請負人をつのった。これに阿部屋がとびつかぬはずはない。榎本臨時政権は明治元年十二月十八日、運上金年二五〇〇両、七年期でイシカリ場所請負を許し、運上金の一部前納を命じ、翌二年一月中旬臨時政権は木野、高嶋、藤田等をイシカリに出向かせ、阿部屋に場所を一応引き渡した。
十年来の宿願かなった阿部屋伝治郎は松前の富商らに〝石狩御場所元の通り受負被仰付〟と手札をくばり喜んだが、それも束の間、榎本軍に武運なく、松前蝦夷地は新政権の掌中に復した。明治二年六月二十一日、新政権は「一時請負いたし候石狩場所引上け申付候事」(村山家資料)を令し、伝治郎を箱館に呼んで審問、六月二十八日入牢となった。罪状の一つ目は直捌場所と知りながらイシカリを請負ったこと、二つ目は運上金前納とはいえ、榎本軍に軍資金を渡したことである。
これとともに新政権は次の処分を六月中に行った。
① 阿部屋の漁場建物、蔵、道具類のすべてを封印する。
② イシカリにおける阿部屋の出稼引場はすべて新政権のもとに接収し、これを希望者に分割する。
③ イシカリ本陣守を罷免し、山田文右衛門(その親戚富右衛門)を後任とし、施設を引き渡す。
② イシカリにおける阿部屋の出稼引場はすべて新政権のもとに接収し、これを希望者に分割する。
③ イシカリ本陣守を罷免し、山田文右衛門(その親戚富右衛門)を後任とし、施設を引き渡す。
したがって阿部屋の近世イシカリ漁業は明治元年の漁事をもって終わりをつげたことになる。また、②の処置として再分割されたイシカリの引場は表9の通りで、表6と対比すると、安政改革直後に登場した網持出稼人で、この時まで経営を続け得たのはわずか五人にすぎなかったことがわかる。
表-9 明治3年 網持出稼人 |
網主 | イシカリにおける出稼引場 | 統数 | 備考 |
山田家 | 浜中(東)、ホリカモイ、ワッカオイ、中モシンレフ(佐藤と入会)、上トウヤウシ、ハナンクル、ヒトヱ(常太郎と入会)、ポンヒトヱ、タンネヤウシ、トママタイ、ツイシカリ下向、ツイシカリのポンヘケレ、ツイシカリ前浜、ツイシカリ上向 | ? | ☆(改革時より継続) 20統前後か |
得次郎 | 浜中(西) | ? | 1統か |
佐藤広右衛門 | 中モシンレフ(山田と入会)、ウツナイ | ? | 4統か |
重兵衛 | ヒラカヤウシ | ? | 1統か |
宇兵衛 | マクンベツ下向、トヱビリ | 4 | 卯兵衛ともあり |
平原平右衛門 | 下モシンレフ | 2 | 幸市ともあり |
周吉 | 下トウヤウシ下 | 2 | |
金兵衛 | 上トウヤウシ | 2 | ☆ |
三太郎 | 下ヘケレトシカ、上サツホロ | 2 | ☆ |
横山喜蔵 | ヒトヱ | 2 | 改会所取締人 |
常太郎 | ポンヒトヱ、ヒトヱ(山田と入会) | 2 | |
利右衛門 | マクンベツ | 1 | ☆ |
幸吉 | 上モシンレフ | 1 | |
万六 | ウツナイ下 | 1 | |
源吉 | 下ハナンクル | 1 | 源次ともあり |
新蔵 | 下ハナンクル | 1 | |
石五郎 | 下ハナンクル | 1 | |
藤吉 | オタヒリ | 1 | |
八右衛門 | サツホロ奥 | 1 | ☆ |
平蔵 | ヒトヱ下 | 1 | |
庄兵衛 | トウヘツフト | 1 | 荘兵衛ともあり |
作次郎 | タンネヤウシ | 1 | 以上網主22人 |
アイヌ | トクヒタ、ヤウシハ、シビシビウシ、下トウヤウシ下、オタヒリ、サツポロフト | 17 | |
役所直営 | 浜中(西)、テイネ、ハラトウライ | 4 | |
合計 | 93 |
『山田文右衛門履歴』をもとに『石狩郡諸調』で補正し た。網統数の合計があわないが、史料のままとした。 |
写真-16 鮭(昭和63年9月14日石狩湾新港に水揚)