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豊平村の成立

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 豊平村は、「豊平橋ヨリ月寒村下迄新道左右」の地域に設定され、新白石村とともに七年三月十七日に市在に告示された。その後、九月二十三日に上白石村への改称、及び山鼻村の設置と共に開拓使から正式に全国へ布達となった。
 豊平村の設置の理由は、「庁下より東方月寒村迄新道筋左右耕地払下ケ、追々人家取建候ニ付」(市史 第七巻二二三頁)とされている。新道は六年六月二十八日に竣工した室蘭へ向かう札幌新道(現国道三六号)のことである。
 「移民履歴調」には豊平村の創成につき、以下のように記述している。
明治六年大判官松本十郎、同所ニ一村落ヲナサント欲シ該地払下ケノ命アリ。於此戸長島倉仁之助副戸長某等四、五名ト協議シテ河ノ両側若干歩ヲ私有セン事ヲ願フ。速カニ許可ヲ得タリ後、石川県士族井上業信ナルモノ該県ノ命ヲ奉シ、農民十二戸ヲ率ヒテ該村墾闢ノ事ヲ希願シ許可ヲ得ルト雖トモ事竟(つい)ニ果サス。

 これによると、大判官松本十郎は六年に村落の形成を企図し、戸長島倉仁之助などに払下げを出願させたものらしい。事実、『地価創定請書』によると、阿辺要之助(阿部与之助か)ほか二七人は六年九月に土地の割渡しをうけている。また家屋の営構は七年に一〇軒みられ、集落が形成されてきたことがわかる。
 また『移民履歴調』には、石川県の農民一二戸の移住のことが触れられている。『北海道毎日新聞』(明治二十九年十月三十日付)には豊平村の沿革について、
六年石川県士族林顕三、今の経王寺前より坂の下に至る間の地所払下を受け、同県より十数戸を移住せしめ加賀開墾地と称す。之(こ)れ本村農民移住の嚆矢(こうし)とす。当時々期未た至らす好結果を得す。十九年に至り漸(ようや)く四戸を存し、仍(よつ)て林顕三より右地所を残留の四戸へ悉皆無代譲与したるに、其後亦(また)離散せり。

加賀開墾のことを伝えている。『地価創定請書』には、豊平村の一四―一、三八―一、四〇、四一番地の四カ所に石川県農民地、総計で約二〇町五反歩の地所をのせている。割渡しはいずれも六年九月で、そのうち墾成したのは一四―一番地の三町二反歩のみである。
 加賀開墾に関与したのは、石川県士族井上業信、あるいは林顕三とされているが、実はこれは金沢県(いまの石川県)庁が企画したものであった。六年五月に金沢県から権大属河崎曽平、金沢町戸長林顕三副戸長宮崎豊次が来道した。その折、開拓使へ通牒された出張依頼には、「金沢県下徒食輩、将来活計之道相開度ため北海道へ見込有之」(開拓使公文録 道文五七五八)とあり、県下の「徒食輩」を移住せしめる目的を持ち来道していたのである。
 一行は三カ月程かけ全道、樺太を遊歴・調査していったが、その間の紀行及び調査をまとめたのが、林顕三の『北海紀行』(明治七年刊、三十五年に『[増訂北海紀行]北海誌料』の題で再刊)である。序文でも一行の目的について、「失産・愁訴」の県民の移住、また県下の物産を北海道へ輸送するための調査につき、県命をおびていたことが述べられている。加賀開墾は上述の目的にそい、県民の移住・授産政策として着手されたとみられる。だが成功を見ずに終わったようである。

図-3 諸村の配置図
村界はその後変更が多い。開拓使地理係「石狩国札幌郡之図」(国公文)をもとに作成(一部補訂)。

 林顕三は十二年に北海道開進会社の役員となって再び来道する。同社の解散以後、官吏としての道を歩み、二十八年十一月から三十年十一月まで札幌ほか八郡長札幌区長もつとめた(河野常吉北海道人名字彙)。