本府成立にともなって、その周辺には急速に集落が成立していったが、そこには移民達によって小祠がつくられ、祭典等も行われた。前述のように、これらは明治以降の法令等に照らしていえば、無願の神祠であって神社とはいえないが、住民の側からみれば、公認の有無にかかわらず信仰・生活の必要に基づいたまぎれもない神社であった。むしろこの時期の移民達にとって、公認の有無などは意識されることが薄かったのではないかと思われる。史料的な制約が大きいが、その範囲でこれら神社について略述してみたい。
比較的多いのは出移民地の神社祭神の勧請である。まず十一年札幌村に移住した長野県人三〇余人が、十四、五年頃に故郷の大社諏訪神社の分霊を奉戴、移民の宅地内に小祠を建立、同県人達によって祀られた。また十七年、月寒村では広島県からの入植者の合議で、故郷の厳島神社と、さらに農耕神として倉稲魂命(うがのたまのみこと)の二神を小祠を設けて奉斎した。また同じ郷土の神ではあるが、琴似村に屯田兵として入地した旧亘理家の家中が、亘理伊達家の祖である伊達成実(武早智雄命)の分霊を八年に持帰り、日登寺に小祠を建ててまつったのが琴似神社の起源である。この場合は郷里の神ではあっても、成実が神号をおくられ、その神社(亘理神社)の創建されたのが屯田兵入植後の十二年であるから、他とは性格が異なる。日登寺への創祀年は不明であるが、二十二年十二月に一社を建築して神霊を移しているから(北海道毎日新聞 明治二十二年十二月六日付)、おそらく十年代の後半であろう。
また、個人の屋敷神として祀られていたものの発展という事例もいくつかみられる。まず六年頃に厚別(あしりべつ)の移民が開拓地の一隅に小祠を建てたのが厚別神社の起源とされている(清田地区百年史)。十六年に苗穂村の移民が自家の守護神として金毘羅稲荷を祀った小祠を建てたのが、のち苗穂山神社となり、同村第一部落守護神として奉斎された(札幌村史)。このほか十八年に札幌区在住者が自家安置の稲荷を「杉山桜稲荷神社」として創立願を提出、却下された例もあった(札幌県治類典 道文九四九六)。
さらに職業と深く関わって創立された神社も少なくない。前記のうちにも農業の神として祀られたものは少なくないし、安政四年創建と伝えられる発寒村の稲荷社(現発寒神社の前身)も同様である。また山口村では十八年、天照大神、豊受大神を奉祀して小祠を建立した。これも農耕神をまつったということであろう。そのほか、豊平川上流を中心に伐木、採石が行われたため山神碑が多く創置されたが、十八年平岸村穴の沢に建てられた山神碑が石山神社の基礎となり、前記厚別神社においても大山祇神(山神)が祭神の一となっている。
このほか神社創立年の記されているものをまとめると、上手稲神社(明治五年)、白石神社(同)、中の島神社(十年)、伏見稲荷神社(十八年)などがあげられる。また十一年に設置された札幌神社の下手稲遙拝所は、十八年十月に黒住教説教所となったが、のちに手稲神社へ発展した。