禁酒会は、二十年に札幌禁酒会として設立されたのが始まりで、伊藤一隆が初代会頭となった。札幌禁酒会は同年さらに北海禁酒会と改称した。禁酒会運動は、キリスト教徒以外の人びとをも含めて幅広く結集した市民運動であった。しかしキリスト教徒にとってはクラークの禁酒の誓約以来の伝統があり、キリスト教信仰の確立と禁酒の実践とは表裏の関係にあると理解されていた。たとえば北海禁酒会創立の中心人物、岩井信六のことで、大島正健は「どうも、この岩井君、キリストの道に入ったが信仰がすゝまない。どうしたものかと一日その宅を訪問し、店先きから声をかけると、奥の方で慌しい物音がする。注意して見ると、来客と一ぱい飲んでゐた。その酒の席を匿さうと云ふ騒ぎであった。信仰のすゝまない元は之であった」(禁酒之日本 第二五七号)とかつての姿を述懐している。
北海禁酒会の第一回総会は翌二十一年一月、札幌基督教会堂で開催され、約二六〇人が参加した。会の目的を、「飲酒淫蕩の頽廃思想打破、酒より民衆をして解放せしめ、以て、正義、愛、創造の精神を基調とし、無酒真善美なる社会建設を使命とし、而して真に日本人の道を生き抜かんとする至誠より創立せられたもの」(同前)とした。六月からは、雑誌『護国之楯』を発刊した。前述のとおり北海禁酒会は禁酒矯風ばかりでなく、アイヌ人施療やその他の社会改良運動を伴う幅広い活動を展開した。二十七年には南二条西一丁目に禁酒会館(倶楽部)を建設し、同年の第七回総会では本来の禁酒のほか、政治・教育・慈善・労働などの各部門の設置が論議されるなど、キリスト教の枠にとどまらない文化活動となった。
また、札幌基督教徒婦人会が、二十一年八月十一日に偕楽園内の清華亭で開催された。遠く空知・樺戸の教会からも集まり、六十余人の親睦会が開かれた。「一切男子の手(て)を借(か)らす全(また)く婦人のみの催ほしなりしものなり」(北海道毎日新聞 八月十五日付)という意義があった。婦人運動は三十一年十二月、札幌婦人矯風会を正式に発足させるまでになり、廃娼問題にも関心を向けていった。一方、札幌バンドの青年によって結成された札幌基督教青年会(YMCA)も演説会を開催するなどの活動を続けていた。三十一年からは、札幌日本基督教会青年会が発行していた月刊紙『北海教報』を引き受けて発行することになった。
写真-9 北海教報(札幌独立キリスト教会蔵)
二十七年には、札幌農学校教授新渡戸稲造が主唱して遠友会を組織し、南四条東四丁目に夜学校を開設した。就学の機会を得られなかった勤労少年少女のための学費無償の学校は、札幌農学校の教師や学生を中心とした人びとの奉仕によって運営と授業がなされた。この年はまた、スミス女学校が道庁から貸与された北一条西六丁目の校舎から北四条西一丁目に移転、北星女学校と改称し、学則を改訂して、国語・古文・漢文・地理・歴史などの「日本学科」の比重を増した。
写真-10 新渡戸稲造
二十七、八年の日清戦争には、札幌基督教青年会は、出征軍人家族のための募金活動を行った。これは、幻燈会やバザーまた義捐金を募って行われたものである。北星女学校も傷痍軍人慰問の音楽会など、戦争遂行には側面から支援・協力した。日清戦争に反対した札幌の教会や個人は未見である。
社会活動でキリスト教会が最も市民に注目されたのは、三十一年九月に起こった全道的な大洪水の災害救援のための活動であった。これは同年九月、札幌と小樽のキリスト教徒によって組織された「基督教徒聯合水災救済会」によるもので、札幌組合基督教会牧師の田中兎毛が委員長となり、同教会員の石田幸八方に事務所を置いた。この活動は演説会や慈善音楽会などと異なり、街頭に出て、食糧・衣類の寄付を訴えるものであった。新聞はこれを次のように報じた。
○基督教徒聯合水災救済会 当区内各基督教徒諸氏は一致標頭の如き会を設け、水害罹災民刻下の急は食糧にあり、次に衣類を以てすと云ふ所から、来る十七、八、九の三日間、毎夕刻より一つの隊列を組み、鳴り物入れにて荷馬車を牽き、区内各町を練り廻り慈善家より古着類を集め、幵(そ)を悉く水災地に送りて窮民一般に分配すると云ふが、其受くべき古着類、単物(ひとへもの)、袷(あはせ)、綿入(わたいり)、羽織、襦袢(じゅばん)、シャツ、古帯、古足袋及び古切れ等なりと
(北海道毎日新聞 十月十五日付)
このほか社会主義については二十六年、北海禁酒会の演説会で新渡戸稲造が「社会党緒言」を講演している。三十二年には社会主義運動の指導者片山潜が来札し、札幌基督教青年会主催の社会問題演説会が開催された。演題は蠣崎知二郎「革新の機運」、片山潜「欧米に於ける近世社会問題」であった。社会主義とキリスト教徒との接触が札幌でも始まった。