この会合が開かれたのは戦後初の北海道博覧会開催中であった。なお旭川開基六〇年を標榜する主催者の「島原おいらん道中」招致計画に対して、札幌市内三七の女性団体が「女権無視、時代錯誤」と中止を求める懇請文を北海道知事と旭川市長に送った(道新 昭25・6・29)。しかし「おいらん道中」は八月中の三日間実施され、ミスコンテストも盛況であった(北海道開発大博覧会誌)。
翌二十六年九月十四・十五日、道教委と帯広市の共催で第二回北海道婦人大会が開かれた。全道から一四六団体七六六人、札幌からは結核予防婦人会・北円山土曜会など八団体一七人が参加した。表28は、当時の札幌市の女性団体の状況である。この大会では「講和後」ということが強調され、分科会は「地域社会の向上、生活の共同化、趣味・娯楽の効果的な会合、生活技術の普及向上、婦人と職業」の五つで、パネル討論は道農業改良普及員小野ハルら三人による「家庭生活の合理化」であった。札幌からの参加者は地域報告で曙婦人会の年間行事を紹介し、第一分科会に「学校教育の充実に婦人団体はどう働きかけるべきか」、第五分科会に「婦人団体は内職に有利な条件確立やパートタイム制設置を如何にすべきか」など提起した。全体討議では「入浴料金の据え置き、婦人少年局の存続、不良図書の追放、給食廃止に反対」が決議された。婦人少年局については農漁村地区の参加者から説明を求める声があがり、大会事務局長が職務の内容をくわしく説明した結果、総理・労働・大蔵各大臣と衆・参両院議長あて「婦人少年局廃止絶対反対」の決議を満場一致で可決した(第二回北海道婦人大会綴 北海道立教育研究所蔵)。
表-28 札幌市の女性団体(昭和26年) |
団体名 | 代表者 | 備考 |
<宗教的性格のもの> | ||
日本基督教婦人矯風会 | 清水シズ | 南10西16 佐々方 |
札幌正教婦人会 | 石井いりな | 南7東1 札幌正教会内 |
札幌北光教会婦人会 | 向井君代 | 南大通西1 |
救世軍札幌小隊家庭団 | 張田マスノ | 南4西1 |
札幌聖公会婦人会 | 瀬谷千代 | 北8西6 |
日本基督教団札幌新生教会婦人会 | 伊藤スマ | 南大通西11 |
日本基督教団札幌北一条教会婦人会 | 五十嵐とく | 北1西6 |
日本キリスト教団札幌教会婦人会 | 佐藤千代 | 北1東1 |
札幌Y・W・C・A | 大森秀子 | 南7西16 |
札幌佛教婦人会 | 石田慶封 | 南4西5 |
中央寺吉祥婦人会 | 福井天章 | 南6西2 |
たちばな婦人会 | 村上匡子 | 豊平3ノ2 経王寺 |
大谷婦人会札幌支部 | 西尾静子 | 南7西8 東本願寺 |
天理教札幌婦人会 | 山本ムメ | 南8西11 |
妙徳会 | 滝ヶ平ハル | 白石5ノ2 |
生長の家白鳩会 | 近藤シゲコ | 南9西1 |
<同志的性格のもの> | ||
札幌友の会 | 佐々喜久恵 | 南10西16 |
白雪会 | 山下愛子 | 北9東5 |
日本婦人有権者同盟札幌支部 | 更科駒緒 | 南1西7 |
大学婦人協会札幌支部 | 田中愛子 | 南13西13 |
日本助看保協会北海道支部 | 竹村マヤ | 南9西12 |
北海道結核予防婦人会 | 水島ヒサ | 北1西2 結核予防会内 |
札幌婦人働く友の会 | 正木ミツ | 白石7ノ1 |
働く婦人の会 | 山田光代 | 南1西5 |
婦人民主クラブ札幌支部 | 片山久 | 北1西17 |
女性文化の会 | 塚本美代 | 南1西1 |
<地域的性格のもの> | ||
東母子会 | 永沢チヤ | 南1東4 |
苗穂婦人会 | 安藤とよ | 北2東9 |
苗穂主婦の会 | 斉藤キヨノ | 北2東8 |
幌北第八分区婦人会 | 津村かおる | 北21西6 |
北円山土曜会 | 近藤マツ | 北3西24 |
北円山主婦の会 | 〃 | |
曙婦人会 | 竹村マヤ | 南9西12 |
西創成婦人会 | 許士ヨ子 | 南7西6 |
本府婦人会 | 山場ひで | 北1西8 |
青葉婦人会 | 鶴岡俊子 | 南3西7 |
豊平主婦の会 | 戸津みこと | 豊平6ノ5 |
やよい会 | 木村ハナ | 上白石町三区 |
中央西婦人会 | 小島シナ子 | 白石町中央 |
<性格不明なもの> | ||
すみれ会 | 鶴岡俊子 | 南3西7 |
互援会 | 村上匡子 | 南17西4 |
『札幌市の教育課程 第一集』(昭26・3)『北海道年艦 1952年版』(昭26・10)より作成。団体の性格づけは筆者による。 |
第三回北海道婦人大会は札幌市で、二十七年八月二十二・二十三日に開かれた。「政治、社会、労働、教育、法律と家庭、生活の合理化、農漁村、婦人団体、レクリエーション、平和」の一〇分科会が札幌の女性団体によって準備された。『北海道新聞』は二〇〇〇人の参加を予想して二十日の紙面に「大会に望む 婦人運動家の抱負」を特集し、高倉とき(人権擁護委員)の「法律と家庭部会へ 家庭の封建性を検討」を初め、七人のコメントを載せた。また大会に向けた『北海婦人』特集号のコメントで秦富久子(大学婦人協会札幌支部長)は、「公明選挙も新生活運動も、婦人の自覚と平和憲法の擁護に結びつくのでなければ無意味です」、正木ミツ(婦人働く友の会)は、「戦争未亡人をこれ以上ふやしたくありません。戦争反対に協力致しましょう」と呼びかけた(日本婦人新聞付録 昭27・8・22)。
大会には一四〇〇人が参加し、最後のパネル討論は藤田たき婦人少年局長ら四人による「公明選挙の徹底」であった。平和部会の助言者も藤田だったが、討議の状況は、再軍備反対、自衛軍の必要、平和憲法の擁護、家庭内の平和を基礎として、戦争玩具の追放、原爆の脅威を世界に訴える(ことも)自衛設備強化も必要(今後の婦人団体のために 昭29)などかなり混沌とした様子で、道新の事後報道は冷淡だった。しかし『道婦連協二十年史』は、「前二回の大会と違い、この大会にあっては婦人団体が協力団体として加わり、今までの行政主体の婦人大会から、企画に運営に女性らしい大会へと一歩前進した」と評価した。
北海道婦人団体連絡協議会(道婦連協)は三十二年、一七市一一支庁の組織で結成され、三十六年から大会を主催するようになった(道教委は後援)。竹村マヤが第三代(昭34~36)、高杉田鶴子が第六代(昭42~43)の会長になるなど、札幌は道婦連協の活動を支えた。