小田原攻めの総勢は二十万人に及んだという。秀吉は三月一日に京都を発し、四月三日には陣を小田原に進めている。

 この役にあたって、真田昌幸前田利家が指揮する「北国囗」の一員を命ぜられた。その軍勢は、真田昌幸三千人、上杉景勝一万人、前田利家一万人で、計二万三千人というものであった。上杉勢と木曽を経て進軍してきた前田勢と合流すべく、昌幸が上田から進発したのは三月上旬であった。碓氷峠から上野(こうずけ)へ入った北国口軍は、まず北条氏の重臣大道寺政繁の守る松井田城を攻め立てた。その戦況について、昌幸はしばしば秀吉の下へ報告し、秀吉からもそれに応えて、小田原の戦況を知らせてきている(写真)。

 四月十一日の書状(写真)では、小田原城は二重三重に取り囲み、鳥の通いもできないほどで、篭城の者共も正体がなくなってこちらへ寝返る者もおり、また、北条の重臣はほとんど城中に集められているので、小田原一城を落とすだけで、関東を一遍に討ち果たすことができる、落城も間もないだろうが、長陣して城内の者共を干し殺し(飢死させる)にし、出羽・奥州・日の本の果てまで仕置きを堅く申し付けるつもりだ、そちらは景勝利家と相談して油断なきように、としている。また、同月十四日の書状(写真)では、小田原攻めの軍勢は充分なので(小田原へと急ぐ必要はない)心静かに松井田城攻めにあたり敵を討ち果たすよう命じている。大道寺政繁が降伏し松井田城が落ちたのは四月二十日であった。なお、松井田城攻撃には小諸城主依田(芦田・松平)康国も加わった。前田・上杉・真田・依田の四手で分担し四方から攻めたという。 真田昌幸は次いで、城主が逃亡した上野の箕輪城を受取った旨を、秀吉に報じている。この折、四月二十九日の秀吉の返書(写真)には、農民の帰住を堅く申し付けるよう、また、東国の風習としての女・子どもを捕らえて売買するようなことは堅く禁ずる、つまり人身売買の厳禁など興味深い指示がなされている。真田勢ほか北国口軍は続いて武蔵の鉢形城、忍(おし)城など数か所を攻略したうえで小田原へ着陣している。

 天正十八年(一五九〇)七月五日、北条氏直は降伏し、関東の雄北条氏は滅んだ。ついで秀吉は会津に赴き、奥羽諸大名を帰服させた。これで秀吉による全国統一の達成がなった。このように真田の属城名胡桃の事件は、日本史上における重要事件の直接のきっかけとなったのだった。

 小田原の役の終了後、天正十八年十月、奥州で領地を没収された大崎氏・葛西氏の遺臣が、新領主に反抗して蜂起した。大崎・葛西一揆と呼ばれる反乱事件であるが、この鎮圧に真田昌幸も出動を命ぜられている。

真田信幸宛豊臣秀次書状
真田信幸豊臣秀次書状

<史料解説>

真田信幸豊臣秀次書状   真田宝物館蔵

  天正十八年(一五九〇)三月八日

 小田原討伐の北国囗隊を命ぜられた真田勢は出発して間もなく、信濃と上野境の碓氷峠で北条勢と交戦している。そこより、やはり小田原遠征の途にあった豊臣秀次(秀吉の甥、近江八幡城主)宛てに、信幸が出した陣中見舞状に対する秀次の返書。秀次は駿河黄瀬川まで進んでいた。

<訓読>

  此の表着陣、見廻(みまい)として示し越さるる通り承悦候。北国衆仰せ付けらるる故、臼井峠筋途中に在陣せらるる由、尤もに存知候。此の面(おもて)別条無く候。我々事きせ川際に居陣せしめ候。山中・韮山程近しと雖も、敵一切人数出さず候。尚、後音(こういん)を期し候間、巨細(こさい)する能(あた)はず候。恐々謹言。
   三月八日 秀次(花押)
     真田源三郎殿

真田昌幸宛豊臣秀吉書状
真田昌幸豊臣秀吉書状

<史料解説>

真田昌幸豊臣秀吉書状   真田宝物館蔵

  天正十八年(一五九〇)四月十日

 秀吉は伊豆箱根下の山中城を、中納言豊臣秀次に命じて攻略し、さらに小田原城を厳重に取り囲んだ。これに恐れをなして城中から逃げてきた皆川のような者もいる、これは助命してやったが、今後は一切許さないつもりなので承知しているように、としている。

<訓読>

  此の表の儀、先書に仰せ遣はされ候如く、山中の城専らに相拵へ、丈夫に覚悟せしむる人数四五千入れ置き候処、去月二十七日中納言に仰せ付けられ候へば、責め崩し悉(ことごと)くこれを討ち捕り、則ち付け入り致し、小田原三町四町に取巻き、を掘り、塀柵を相付け候。これに依り城中正躰(たい)無く候て、下野(しもつけ)国皆川山城守、命を助けられ候様にと申し上げ走り入り候。是は先年御太刀をも納められ候者の事に候間、助命され、家康へ遣はされ候。此の以後は北条首を刎(は)ね持ち来り候共、御助けなさるまじきと思(おぼ)し召され候間、其の意を成すべく候也。
   卯月十日(朱印)(豊臣秀吉
     真田安房守とのへ

真田昌幸・信幸宛豊臣秀吉書状
真田昌幸信幸豊臣秀吉書状

<史料解説>

真田昌幸信幸豊臣秀吉書状   真田宝物館蔵

  天正十八年(一五九〇)四月十一日

 四月十日の「真田昌幸豊臣秀吉書状」の翌日付け書状であり、「先書」で言った通りだが、と断って同様の話をまずくり返した上で、海上まで封鎖しており、鳥の通いもないほどだ、などとも言っている。また、北条の主要家臣のほとんどが集まって篭城しているので、小田原城さえ落とせば、関東を一遍に片付けられる、落城は間もないだろうが、長期戦で篭城の奴らを餓死に追い込むことにした、などとも述べている。

<訓読>

  去る四日の書状、今日十一、小田原面(おもて)に到来、披見候。仍って此の表の事、先書に仰せ遣はされ候如く、山中城専らに相拵へ、丈夫に覚悟せしむる人数四五千入れ置き候処、去月二十九日中納言に仰せ付けられ候へば、責め崩し悉くこれを討ち捕り、則ち付け入り致し、小田原二町三町の間に取巻き、を掘り、塀柵を相付け、二重三重に取り籠め、諸卒番所陣屋透き間無く町作に仰せ付けられ候。海上の儀は警固船数千艘これを浮かべ置き、誠に鳥の通ひもこれ無きに付いて、以ての外城中正躰無く、去る八日夜も下野国皆川山城守侍以下百余引き具し走り入り、命を相助け候様にと御侘び言申し上げ候。これは先年御太刀をも納められ候者の儀に候間、是非無く御助け成され候。即ち家康へこれを遣はされ候。此の以後は縦(たと)へ北条首を刎(は)ね候て持ち来り候共、一人も御助け有るまじきと思(おぼ)し食(め)され候。関東八州の物主(ものぬし)共残らず相籠り候間、小田原一城にて関東一篇に討ち果たさる計らひに候。落去(らっきょ)程有るべからず候と雖も、長陣なされ、城内の奴原(やつばら)悉く干殺しに仰せ付けられ、出羽奥州、日の本の果て迄も相改められ、御仕置等堅く仰せ付けらるべく候。中ん就く其の面の事、景勝(上杉)・利家前田)相談せしめ、由断無く相動(はたら)くべき事肝用に候。尚石田治部少輔(三成)申すべく候也。
   卯月十一日(朱印)(豊臣秀吉
     真田安房守とのへ
     同 源三郎とのへ

真田昌幸・信幸宛豊臣秀吉書状
真田昌幸信幸豊臣秀吉書状

<史料解説>

真田昌幸信幸豊臣秀吉書状   真田宝物館蔵

  天正十八年(一五九〇)四月十四日

 これも真田父子からの報告に答えたもの。昌幸ら北国囗勢が上州松井田城の根小屋(城下集落)を焼き払い、城を包囲しているとのことだが、小田原攻城の人数は充分なので、心静かにじっくりと攻略するようにと指示している。松井田城大道寺政繁が降伏したのは四月二十日であった。

<訓読>

  去る七日の返札、昨日十三、披見候。小田原表の儀、先書に仰せ遣はさるる如く、去る五日御座を移され候。然れば、先手の間二町三町宛土居、塀柵二重に付け廻し、小屋の町作に候て、番所丈夫に申し付け、念(を入れ?)人数持ちは居所のを拵へ半ばに候。其の方動きの様子聞き届け候。上野国中にこれ在る松井田根小屋悉く焼き払ひ、則ち取り巻きこれ有る由尤もに候。当表人数別に入る事これ無く候間、心静かに申し付け討ち果たすべく候。景勝利家相談せしめ、弥(いよいよ)由断有るべからざる義肝要に候。猶石田治部少輔申すべく候也。
   卯月十四日(花押)(豊臣秀吉
     真田安房守とのへ
     同 源三郎とのへ

真田昌幸宛豊臣秀吉書状
真田昌幸豊臣秀吉書状

<史料解説>

真田昌幸豊臣秀吉書状   真田宝物館蔵

  天正十八年(一五九〇)四月二十九日

 松井田城を落とした後、昌幸ら北国囗勢は箕輪城の羽賀信濃守を追い出し、城を受け取った。これに付いて秀吉は武具・兵糧(ひょうろう)等を少しも間違いないように念を入れて受け取るようにせよ、とするとともに、農民を帰住させるよう堅く申し触れよ、占領地での女・子どもを捕らえての人身売買を堅く禁ずるなどと、戦後の統治をにらんでの命を出している。

<訓読>

  去る二十四日の書状、今日二十九、披見候。箕輪城の儀、羽賀信濃守追い出し、保科居残り、城相渡すに付いて、羽柴孫四郎同前に請取るの由尤もに候。小田原の儀取り篭められ、干殺し仰せ付けらるる故、隣国の城々命の儀御侘び言申し上げ候。御助け成され候城は兵粮・鉄炮・玉薬其の外武具悉(ことごと)く城に相付け渡し候。家財は少々城主にも下され候間、其の意を成し、箕輪の儀も玉薬其の外武具・兵粮以下、少しも相違せざる様に念を入れ請取り置くべく候。次に在々所々土民百性(姓)共還住の儀仰せ出だされ候。其の許堅く申し触るべく候。東国の習に女童部をとらへ売買仕る族(やから)候はば、後日成り共聞こし召し付けられ次第、御成敗を加へらるべく候。若しこれを捕へ置く輩これ在らば、早々本在所へ返し置くべく候。万端由断有るべからず候。猶以って此の節の儀に候条、辛労仕り、弥(いよいよ)粉骨抽(ぬき)んづべき儀肝要に候。委曲石田治部少輔申すべく候也。
   卯月二十九日(朱印)(豊臣秀吉
     真田安房守とのへ