[解説]

「内藤家十五世紀」(十一)(藩校進徳館設置のこと)
伊那市教育委員会 大澤佳寿子

 『内藤家十五世紀』は、元禄4年(1691)から明治維新まで高遠藩主を務めた内藤家のいわば「家史」にあたる記録で、旧高遠藩士の小松利時が明治36年(1903)にまとめたものです。本編10冊のほか、編輯事歴や付録などを合わせて18冊からなる叢書です。この記録は、小松利時が江戸時代に編纂された内藤家の家史「世乗」や「内藤家言行録」、「藤葛」等の記録を元に、旧藩士らから収集した資料に見える記述を加えて、この記録を編纂したもので、天文元年(1532)に生まれた内藤仁兵衛忠政を初代とし、15代目の内藤弥三郎に至るまで、明治33年(1900)までの当主の略歴や記事が記されています。
 中でも『内藤十五世紀(十一)』は、安政6年(1859)に家督を継ぎ、最後の藩主となった内藤頼直の時代の記録で、維新期の高遠藩の動きや、高遠藩の学問所「進徳館」創設の記事等が盛り込まれています。
 
高遠藩の学問と藩校進徳館
 進徳館は江戸時代末期の万延元年(1860)に開校し、明治4年(1871)に幕を閉じました。わずか11年余りの開校期間でしたが、進徳館で学んだ多くの藩士が近代教育の草創期に、長野県内各地で教壇に立ち、「信州の学問の源流は北の代、南の高遠にあり」と称されるほど世に知られる存在となりました。高遠藩における学問がどのようなものであったのか、進徳館の概略と合わせてご紹介します。
 高遠藩は伊那谷北部に位置する三万三千石の小藩です。江戸時代には保科氏、鳥居氏、内藤氏という3家の大名が交代で藩主に就きましたが、藩として積極的な学問普及を長らく行わなかったため、学問を志す者がいても師がおらず、独学で学ぶか他所へ遊学して学ぶしかないという状況が江戸時代の中頃まで続いていました。
 そんな中、18世紀半ばになると、学問に熱心な藩士が現れ、ようやく地域に学問興隆の雰囲気が生まれます。その中心となったのが、儒学者であり砲術家でもあった阪本天山です。天山は儒学の中でも易学を重視し、真の学問は自分たちの生きる社会や政治と関わり、これに役立つものでなければならないと考え、これを「実学」を称し、彼の下に集った人々の教育にあたりました。進徳館開校から遡ること100年も以前のことですが、彼の教えは門下生らに受け継がれ、後の進徳館の学びの根幹を成すものとなりました。
 文化年間になると、国許の高遠だけでなく、江戸藩邸においても学問が盛んになっていきました。向学の雰囲気を肌で感じ、さらなる学問の必要性を痛感した当時の藩主・内藤頼寧は、藩邸に昌平坂学問所の塾長・佐藤一斎を招いて講義を受け、自ら門人となり積極的に勉学に励んだほか、藩士らにも学問を奨励しました。内憂外患の世情において、頼寧は有能な人材を育てるためにも何とか学問所を設立したいと考え、佐藤一斎に助言を仰ぐなど、実現にむけて奔走しましたが、苦しい財政状況であり、且つ内外多事の折から、頼寧の手による学問所設立は叶いませんでした。
 その後、頼寧の遺志を継ぎ、学問所の設立の悲願を果たしたのが、最後の高遠藩主・内藤頼直でした。『内藤家十五世紀』には、その際の状況が記されています。
 万延元年(1860)閏3月、藩主就任後初めて高遠へ国入りした頼直は、帰城するや否や藩の重役らと協議し、学問所の開設を発表します。藩士の教育一切を取り仕切る最高責任者・文武総裁に岡野小平治を任命し、文学師範には中村元起(中蔵)と海野喜左衛門(幸成)を任命したほか、筆学、弓術、馬術、槍術、剣術、砲術、軍学、体術などの師範もそれぞれ任命しています。また、学問所の建物として、城内三ノ丸にあった家老・内藤蔵人の屋敷を使うことにしましたが、この建物は茅葺の平屋八棟造りで、珍しい構造であったといわれています。
 万延元年閏3月28日、家老職以下、家臣を率いて学問所の開場式に臨んだ藩主・頼直は訓示で、「儒学の本意を失わず、実学専一に心掛けること。しっかり勉強し、礼儀をただしなさい。藩の役に立つ人間となるため、まずは経学を中心に学び、その他はそれぞれの量に応じて広く学びなさい。万が一に備え、常日頃から武術の稽古を怠らず、国家有事の際は武功を立てて藩名をけがすことのないように心掛けなさい。」と藩士たちに申し伝えました。
 開校当初の学問所は「三ノ丸学問所」と呼ばれており、後に昌平坂学問所の大学頭・林学斎によって「進徳館」と命名されました。この名称は易経にある「君子は進徳修業、忠信は徳の進む所以なり」という一節からとったといわれています。藩校としては信濃11藩の中では遅い時期の設立でしたが、満を持しての開校でした。
 進徳館への入学が許されたのは、高遠藩士とその子弟のみで、入学希望者は親同伴の上師範と面会し、師弟関係を結ぶことが定められていました。就学年齢は8歳から25歳までとされ、8~15歳までが幼年部、16~25歳までが中年部で学びましたが、25歳以上の者でも希望者は勉強を続けることができました。しかし、実際には15歳以上になると公務が忙しくなり、日常的に通うのは困難だったといいます。また、下級武士で生活が苦しい者は登校時間を短縮し、残りの時間は仕事に行ってもよいことになっていました。校内には寄宿寮が設けられ、17歳以上の希望者かつ成績優秀者が入寮し、朝早くから夜遅くまで勉学に励みました。開校以来、進徳館に通学した生徒の累計は約500名、寄宿生徒は約40名といわれており、職員は文武総裁を筆頭に、文武監察、会計方、師範役、師範手伝、助教、句読、定番、小使の総勢50人ほどでした。食料以外の運営費用はすべて藩費により賄われています。
 藩儒であり文学師範も務めた中村元起が立案した教育方針に基づいて、進徳館では様々な学問や武術が学ばれましたが、教育の中心を成したのは儒学でした。古典でもあり儒学の最も基礎的な書物である四書五経などの講読を通して、政治と倫理の規範を学んでいきましたが、文章を声に出して読む「素読」のほか、年齢や習熟度に応じて、文章の内容や意味を互いに論じ合う「会読」、「輪講」などの学習方法が用いられました。
 学びの元となった書籍類は、開校時に頼直自らが所有する蔵書を下げ渡したほか、城下の鉾持神社の祠官・井岡良吉が藩儒・中村元恒らと収集した書籍なども寄贈され、最終的には7,000冊を超える蔵書数となりました。中には個人では入手が困難な書や貴重書もあり、生徒はもとより教師らも寝食を忘れて読みふけったといいます。(※これらの蔵書の一部は、信州大学から寄託され、現在伊那市立高遠町図書館に収蔵されています。)
 進徳館で学んだ多くの藩士の子弟の中でも、随一の秀才といわれたのが伊澤修二です。修二は文部省の官僚となり近代教育の礎を築いた人物で、西洋楽を教育科目に取り入れ、東京楽学校(現:東京藝術大学楽学部)の初代校長を務めたほか、教科書の編さんに意欲的に取り組むなど、新たな世の中に必要な教育の仕組みを整えました。
 また、日本で林学博士第1号となり林業の発展にを尽くし、後に政治家となった中村弥六進徳館で学んでいます。ほかにも、名こそ残らぬ多くの藩士たちが、進徳館での学びを糧に、近代日本の社会を築いていきました。
 明治に入り、支配体制や社会制度が大きく変わる中、進徳館にも変化の波が押し寄せます。明治4年(1871)7月、廃藩置県によって高遠藩は廃止となり、新たに高遠県が設置されました。運営母体が藩から県へと変わったことにより、進徳館も「高遠県学校」と名称を変えましたが、教育の実態が変わることはなく、今までどおりの教育が続けられました。しかし同年11月、筑摩県との合併により高遠県がなくなり、旧藩主の内藤家が高遠を去ると、主を失った学校も閉校に追い込まれます。万延元年(1860)の開校からわずか11年半にして、進徳館は幕を閉じました。しかし、教育の場としての機能を失った後も、進徳館は地域の人々によって大切に守られてきました。明治以降、増改築工事が繰り返されたため、現在残るのは開校当初の建物の一部にすぎませんが、貴重な江戸時代の学問所遺構として、昭和35年(1960)に長野県の史跡となり、さらに昭和48年(1973)には高遠城跡の一部として国史跡に指定され、現在も公開・活用されています。