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松 舘 藤 太 郎(注24)
我が木曽山林学校は明治34年4月開校以来堅実なる発達を遂げ、茲(ここ)に20周年を迎ふるに至れるは邦家(ほうか:わが国)並に林業界の為に慶賀に不堪(たえず)。不肖(ふしょう:自分のことを言う謙譲語)明治40年第4回卒業生の一員として今日此の光栄に浴す。衷心欣決(ちゅうしんきんかい:心の底からよろこばしい)の情禁じ難きものあり。
茲に謹みて満腔(まんこう:胸いっぱい)の熱誠を以て祝意を表し、益々発展斯界(しかい:この社会、その方面)の為に貢献せられむ事を切に祈る。
紀念号発刊に際し何れにかと思へども、真の山人にて足は人一倍頑強なるも、口手の発達至つて鈍く林友紙上へも通信文の外は投稿せし事なきも、此の機に際し従来の罪を一掃し、謝する為に経歴の一部を披瀝(ひれき:うちあける)し、併せて所感の一端を述べ大方諸彦の御指導を仰がむとす。
回顧すれば40年3月、卒業後両3日間福島町にあり。3ヶ年間の親しみの名残を惜しみ郷里大桑に帰りしが、間もなく青森大林区署より至急赴任すべき電令に接し、4月2日早速旅装を整へ福島町に至り同行者を尋ねるに、1回の杉本君、3回の宮田君、同期の由尾、新井、肥田等の五君なるを承知す。茲に於て元気百倍し3日は一行と共にお
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馴染(なじみ)の福島町を後にして関町を越へ愈々(いよいよ)旅の人とはなりぬ。鳥居峠の頂上にて恩師松田校長先生に邂逅(かいこう:めぐりあうこと)し、茲に青森行に付堅き決心を言上しお別れ致し歩を進む。当時中央線は汽車を通せず為に己(おのれ)が膝栗毛に鞭(むち)打ちて塩尻駅に至り、之より車中の人となり東京に出でぬ。
時恰(あたか)も内国博覧会開催中とて一応は観覧せるも、希望の任地に向ふ矢猛心に急がれ、舘内素通り何も頭に残されしものなし。而して6日は上野駅より乗車の事となり、任地も間近の心地して愈々奥州への旅立意義ある旅程に上る。一行何れも意気軒昂(いきけんこう:意気がさかんにあがること)衝天(しょうてん)の慨あり。即ち車中盛んに「アリナレ川」「アンデス山」などのラッパ節を高唱し恰も吾れ一人の観ありき。一行の服装は亦甚だ振ひ否無邪気にて、正服正帽と言ふ扮装の者もあり、社会学を修めざりし其の当時の連中には無理なかりしなり。4月7日青森に到着し同市屈指の3階建一等旅舘かぎやに投宿せり。奥州は酷寒地と聞き覚悟し行きしも期待に反し温暖の感少からざれど、各所に(市中)残雪ありしは当時の気候として之又意外に感ぜられたり。而して翌8日は早速登庁して夫々青森大林区署在勤の辞令を受けぬ。間もなくして同期の竹内、平田、矢島の諸君も赴任せられたり。由尾君と不肖とは施業案に、平田君は測量にて本署詰、他の諸兄は何れも小林区署へ赴任せらる。
青森大林区署は特別経営事業の一大拡張期に際し、殊に前年(39年)12月末庁舎は祝融氏(しゅくゆうし:古代中国の伝説上の人物、火事を意味する)の為に全焼の憂き目に会し、前年外業の成果を悉く烏有(うゆう:火災で何もないこと)に帰し、之れが復旧を期する為、大車輸的活動期たり。又官行斫伐(しゃくばつ)(注25)事業とて従来の立木処分を中止し更新上考慮を要する点あり。林区署自ら伐採丸太として売払の方法を講じ人員の増員をなす場合にて、斯くも多くの人員を要したる次第なるべし。吾々施業案の2名は約2週間青森に滞在し、焼き出され後の民家を借入れ分室に出勤し例規規程類の研究に没頭せり。吾々は青森の言葉・地理に通せざりし為に常に異様の感に打たれ、又はとんだ考へ違ひをなし滑稽(こっけい)を演じたるあり。即ち出張すべき地名に横浜と称する所あり。盛んに横浜々々と連呼せらるゝ為テッキリ神奈川県の夫れと思ひ、遠方まで行くものだと其の一瞬考へさせられし事もありき。愈々日も経期も熟し出張する事となり、由尾君とは別れしも何れも斗南(となみ)ケ半島(下北半島)なりし。当時本官施業案に10数名の内専門学校出身者は僅かに一名にて、他は悉(ことごと)く林業講習所出身の方々のみなりき。之等の方に従ひ山元の一民家を仮り住居と定め外業に従事する事となれり。第一日目はクリノメートル・間縄を持ち3名の人夫を連れ登山し、前年測量せる林班界を更に測定するの仕事をなす(前述の如く焼失の為再測を為すものなり)。伐り開きは前年已に行はれあり。今より考ふれば実に楽なものなりしも、其の一日にて甚だ落胆、今まで想像しありし総べては裏切られたる感ありき。
而して雨天を除く他は連日の外業にて、川沢と言はず峯と言はず小班界(林相別)迄測量するに至り、其の困難状況譬(たと)へん様もなく上野駅を発せし当時の元気は何れともなく去りしも、10数日間の経験に
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より更に別途決心を固め従業せり。然るに約2ケ月の後盲腸炎と言ふ難病に冐され、正に一命を屠(と:注26)さんまでに患ひしが、約40日間にて回復せり。新参者の自分として斯くも重病に呻吟(しんぎん:うめくこと)せし当時の心は又格別なりしも、再び外業に従事するを得たるは一ッに天祐(てんゆう:天のたすけ)と深く感銘、更に奮闘し12月まで外業を続け中旬帰庁し第1年目の出張は終はりぬ。之れより大正元年度まで岩手県2ヶ年、青森県4ヶ年、都合6回内2回は検訂に他は編成として出張せり。其の後一身上の都合より小林区署在勤となり、大正2年6月盛岡を振り出しとし鰺ヶ沢(あじがさわ)、久慈(くじ)の三小林区署を経、現任地に参り既に2ケ年半を経過せり。小林区署にありては8年余(あまり)造林業務のみ専攻、今日に至りしものにして足掛実に15年、一施業期半に達せるも格別の事なく碌々(ろくろく:平凡なさま)今日に至りしが、感ずる処は只木材欠乏の一事のみとす。
施業案編成当時は各事業区共其の規程の定むる所に従ひ、独立の経営即(すなわ)ち収支関係に甚だ重きを置き、立木伐採の如きも林力の許す範囲に於て、出来得る限り多量に伐出すの計画を樹立し、深山幽谷の原生林に近き林分に対しても、極力伐採すべく林道の改設、家庭工業の発展等を期し、無理にも伐採せんとするの方法を執れり。
然るに世の進運(しんうん:進歩に向かっていく傾向)に連れ木材の利用も展開し、逐次多量に伐採するに至れり。殊に大正3年以来世界を震駭(しんがい:おどろいて、ふるえあがること)せる大戦乱(:第一次世界大戦。欧州大戦。1914~18)により我国森林は過伐に陥り、各地共木材の不足せるを耳にす。之れが適例として当署管内に於ても初期外の伐採希望被害木の払下伐採量の増加等を出願し来る向(むき)頗(すこぶ)る多し。常に民林の伐尽(きりつく)せるを目撃しつゝある不肖は出願地元各位に対し、同情の涙禁ぜむと欲して能はず。それにつけても「無き袖は振れぬ」の古諺(こげん:古いことわざ)を感じ、施業案当時は木材多量伐出を計画し利用開発に腐心せるに、僅か10年を出でざるに早くも木材欠乏を聞くに至りしは何たる皮肉ぞや、転(うたた:心がとめようもなく)今昔の感に不堪(たえず)。日本の木材は今後50年にして伐り尽さると盛んに唱導せらる。
今専門学者の調べられたる之等(これら)関係に付詳記せば、明治40年より大正5年に至る平均1ケ年伐採材積1億5,500万石にして、大正6年の伐採量は1億8,700万石、大正7年は2億5,000万石に増加し、外国産木材の輸入も大正3年は16万石なりしに対し、大正7年には83万石に増加せりと言ふ。而して之れが供給可能数を見るに1億1,800万石乃至(ないし)1億7,700万石にして、已徃(いおう:過去)伐採量に及ばざること約2,600万石乃至5,000万石にして、年々之等は過伐に陥るものにして、過伐の分を控除せば供給し得べき標準年伐量は一層減少するのみにして、森林の元本を犯すに至り遂に究極するところを知らざるに至る。
翻(ひるがえっ)て植伐関係を見るに、明治41年より大正5年に至る10ヶ年間に於ける平均1ヶ年の森林伐採面積は32万7,000余町歩にして、同期間平均1ヶ年の人夫植栽面積は僅に12万8,000町歩余に過ぎず、約20万町歩は植栽せられず均衡を失す。尚又最近に於ける人工造林の趨勢(すうせい)を見るに大正7年には10万8,000町歩となり、大正2年植
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栽面積14万9,000町歩に比し、僅々(きんきん:わずか)5ヶ年にして2割8分の減少を示すに至れり。尤(もっと)も森林の更新は全々人工植栽に依るべきにあらざるは勿論なるも、天然下種或は萌芽又は伏条・分蘖(ぶんげつ)等其の森林の状況により、新謂(しんい:あたらしく言うところの)天然更新法(注27)を適用すること素より障害なしと雖も、之れも程度ものにて伐採面積の3分の2以上が悉(ことごと)く斯法(しほう:この方法)によるを至当とすとは信じ得ざるなり。即ち当然植栽すべき地況なるにも不拘(かかわらず)当事者の無関心により其儘(そのまま)に放置せられあるもの多き事と思考す。木材の飢饉(ききん)は前記の如く歴然たるに不拘(かかわらず)伐採跡地の更新状況亦如斯(かくのごとく)とは実に寒心(かんしん:ぞっとすること)に不堪なり。
加之(しかのみならず)更に森林の荒廃により齎(もたら)す災害の甚大なるを思はざるべからず。我国生産物中最大なるは米とす。此の米は山と木により完全に産出し得べきなり。又年々洪水汎濫による被害は実に莫大なるものにして大正元年より同5年に至る平均被害高は面積22万6,000町歩、此の額3,805万円にして、仮りに一町歩当りの人工造林費100円と見積るときは38万500町歩を造林し得べきなり。
政府は大正9年度より第一期間即ち15ヶ年の計画を以て、公有林野に対し30万町歩の官行造林(注28)を遂行する予定なりと言ふ。単に金額のみにより考ふるに、前記被害額により1ヶ年間に此の15ヶ年の予定事業を遂行し尚余力を生じ得るなり。
今や科学万能の世となり電気の応用実に夥(おびただ)しく寒村に至るまで電灯の点せられざる地なきに至れり。之れ皆森林存在により潤沢に供給を受けつゝある水の利用によるものにして森林の恩恵や実に大なりと云ふべし。現に国内にて使用されつゝある原動力は約100万馬力にして、今後利用し得べき極量としては渇水量にて500万馬力と註(ちゅう)せらる。今之れを火力によるとせば9,000万噸(トン)の石炭を要し我国として得て望むべからざるも、此の改算価額は25億円に上ると云ふ。即ち此の富と力とは水の涸渇と共に雲散霧消し尽すものにして、石炭の豊富ならざる我国としては水力電気の利用は実に重大なる意義を有す。
次に最も重大なる森林の価値は国防上即ら軍事上大なる関係を有す。這次(しゃじ:このたび)欧州大戦に於ける森林の偉功と木材の霊能とに付ては讃美の詞(ことば)を知らず。連合軍最後の勝利は佛蘭西(フランス)国東都諸州の整備せる森林に負ふところ甚大なりしと言ふ。我国に於ても常備軍の一ツに森林をも加へ養護に努めざるべからず。
由来(ゆらい:もともと)樹木は他の工事製作品等と全然其の赴(注29)を異にし、単に資力・労力により生産し得べきものにあらず。「時」を以て第一の要求とす。樹木の権威・特質は実に係りて時にあるなり。
以上の如くにして木材の欠乏を聞く真想は、単に現物の問題のみならず、専門学者の指示せらる前述の如き厳格なる大影響を有す。
茲に於てか我々実地の衝(しょう:かなめ、要処)に立つものゝ責任や実に大なりと言はざべるからず。此の際吾々の執るべき責務は協力一致を喚起し危急の時勢に沿ふべきなり。百年の時を経て漸く成果を挙げ得る林業は、一
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日一刻たりとも忽緒(こつしょ:なおざり、ゆるがせ)に付すべきにあらず。大力諸彦(しょげん:諸君、多くの人)の御同感を信ず。益々同一歩調に出でられむ事を警言(けいげん:いましめて言う)するものなり。聊(いささ)か所感を述べ、各位の御眷顧(けんこ:なさけ、ひいき)と御指導の程を懇望し、併せて御健康を祝し擱筆(かくひつ:ふでをおく)す。
(10、4、8、稿)