東照宮の建立と焼失・遷座

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東照宮(昭和44年)

 『祭神記』という天台宗等澍院執事(実質的には東照宮の宮司)の書いた記録によれば、
 
  箱館奉行従五位下小出大和守殿政府ノ命ヨリ北門ノ鎖鑰ニ五稜郭ヲ亀田郡ニ築キ給フ。(中略)城郭ヲ始メ蝦夷地ノ鎮護ノ神ト称、政府ニ奏請シテ城郭鬼門ニ当ル所ノ御城ヲ十八町余上ノ山村ナリ。又同村ヨリ四丁余ニ山アリ此所ヲ地清浄ノ処ニ太神ノ御社地トシ(中略)政府社殿此他ニ金壱万両余ノ掛リ蝦夷日光トモ称スヘキ大社ナリ。元ハ上山村ナリシモ改メテ大神ノ鎮座ヨリ神山村ト称ス 御用達杉浦嘉七ヨリ数百両御宮御造営ニ献納ス。又小林重吉、佐野専左衛門、山田文右衛門佐藤半兵衛、福島與吉、蛯子武兵衛、佐藤佐次兵衛、田中正右衛門、白鳥衡平、五十嵐要助、松代保平、國領平七井口兵右衛門藤野喜兵衛、杉野三次郎其他回船問屋一同其外ノ町人ヨリ御造営ノ若干献納金アリ。
 一 手水鉢 是ハ大坂御影石ニテ其目形七百貫目長六尺巾三尺余  壱個
 一 水屋  是ハ九尺弐間惣銅葺木材ケヤキ菊惣浮彫       壱棟
  箱館奉行小出大和守藤原實殿奉納ナリ。
 一 アマ狛コマ 狛大坂名産生石 台ハ大坂御影石        弐個
  箱館奉行組頭調役平山謙次郎其外
 一 大石鳥居 大坂御影石                   壱基
  箱館奉行御付常役中ヨリ奉納
   右何レモ元治二年四月十七日トアリ
 同十七日御大祭ノ儀式
 箱館町ハ勿論、近郡遠村ニ至ル迄御触書ヲ以テ御大祭執行有之候ニ付、参拝差許シ候旨、一同参拝ニ可出旨、御触達シ相成候由、箱館町役人ヲ始メ有志一同尽力ニテ可成盛ナル祭リヲ為ント町々事務所ヲ置、大祭委員ヲ命出シ車人形餝リ、酒赤飯甘酒ノ外ニセッタイ生花手踊等ノ事ニ尽力、御同心并非常御役人祭典御執行中、市中人家別シテ火ノ要心ヲ戒メ、各組消防各組内ヲ警備ス、箱館ヨリ神山村御宮迄ノ処ニ小屋掛売物商人思々ノ店ヲ出ス、尤箱館人民一同大ニ御祭ニ力ヲ尽ス。
 
 というような状況であり、現在の神山東照宮跡からは想像も出来ないほど盛大な祭りが行われ、官民こぞってこれに参加していたことがわかる。しかしこれもつかのまの出来事であり、時代が変わり明治新政府が成立するやその勢いは急激に衰え、一時的に榎本軍の蝦夷地占領により勢いをもりかえしたが、明治二年五月十一日、この辺一帯で行われた戦い(四稜郭・東照宮付近)により、官軍側により社殿に火を放たれ、かつて蝦夷日光と称されたほどの社殿は焼失してしまった。
 明治二年榎本軍が東照宮を拝した様子を前記『函館戦記』(彰義隊員某の手録)は次のように記している。
 
  明治二年己巳一月十七日、五稜廓ニアル処ノ兵隊尽ク整列、上ノ山ノ神祖ノ太廟ヲ拝シテ神酒ヲ全軍ニ与フ、外国人等其多勢ニシテ勇鋭ナルニ驚歎スト云。
 
 また明治二年五月十一日東照宮焼失について『奥羽並蝦夷地出張始末』によれば次のごとく記されている。
 
  徳川家康の社屋ニも砲墩相設ケ応援し、兵ノ屯集仕居候得共、是亦本道の長州兵突入に及び、両所とも同じく潰散仕り、依て其社に放火し少し尾撃仕置候。
 
 この時東照宮は焼失したのであるが、御神号その他は無事避難したもようで、『壬申八月巡回御用神社取調』によれば次のように記されている。
 
  明治二己巳五月上山東照宮社兵火ニ焼亡ノ節、御神号ハ様似等澍院エ守護イタシ、御画像ハ当庵(等澍院所天祐庵)ニ奉仕候。
 
 その後明治七年六月十五日仮殿完成(谷地頭)、明治十一年十二月現在の水元の位置に新社殿が完成し遷座したが、翌十二年四月その地を浄水場とすることになったため、再度遷座を行い、現在の宝来町に移った。