[入北記]

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 入北記は、安政四年、箱館奉行堀利凞(としひろ)(文政元年生・一八一八)が、六ヵ場から北蝦夷地(樺太(サハリン))を巡検したとき随行した玉虫義の著したもので、島義勇(よしたけ)の同名の著がある。
 堀利凞は、幼名を利忠、字は欽文、士積、通称 省之助織部 号 有梅・梅花山人。
 嘉永六(一八五三)年、目付となり、北辺防衛に参画した。
 安政元(一八五五)年、村垣範正とともに蝦夷地を巡検した。このとき蝦夷地警衛と夷人撫育の要をしたためた復命書を幕府に提出した。
 この説が翌安政二年、蝦夷地再直轄制を復活することになり、この後における日露の国境問題をすすめていく幕府の方策の根拠とされる重要な内容でもあった。堀は竹内保徳に次いで箱館奉行となり、安政三年、村垣範正と奉行職をともに勤める。

安政四丁巳年1857 箱館奉行堀利熙(としひろ)鎮台
蝦夷嶋並北蝦夷地(樺太)巡回見分行路旅宿滞留地
玉虫義「入北記」に據る 数字は宿

月日 宿所 会所
 
 奉行は江戸在勤・箱館勤務回蝦夷地巡検に交替で当たり、蝦夷地の経営に尽力した。
 安政四年(一八五七)四月より約七ヵ月に余る長期の旅程をもって、蝦夷地(北海道)全島と北蝦夷地(樺太)の巡見をなしとげた。
 つぎに玉虫義の入北記の旅が、いかに長旅で困難なものであったか、当時の北辺の交通の実情として、旅程を記して略図を作成した。
 
玉虫(たまむし)   文政六年1823生 本名誼茂 義ともいう。通称左太夫。
 仙台藩士。江戸に出て林大学頭に学び、ペリーの浦賀来航に際し、憂国の同志と活動し堀利凞の知遇を得、堀の蝦夷地巡見に随った。
 万延元年(一八六〇)、村垣淡路守らの遣米使節に随行、「航米日録」をまとめた。戊辰戦争にのぞみ、藩中に説いて、同志とともに奥州列藩同盟に参画、その軍事局副頭取となり抗戦を主張したが、大勢は官軍に降服した。玉虫らはひそかに榎本軍に合流して蝦夷地行を約したが乗艦を逸し、捕えられて切腹を命ぜられた。数え年四六歳。
 
     入 北 記  九
安政四丁巳歳四月廿五日ヨリ五月朔日迄日数六日之間鎮台堀公六ヶ場所御廻村コレアリ、陪属ノ者御支配調役並三田喜六、金銀山掛仁杉鋋三郎、下役栗原十兵衛、御家来ニハ給人前野三左エ門、中小性森深蔵、田中良平ナリ。
姫路藩菅野猶介暫時中小性席ニ入リ陪シタリ。同人ハ去歳夏中ヨリ北地遊歴当時箱館ニ逗留シタル者ナリシガ、陪属ノ願申出ルニヨリテ如此僕獨リ近習ニテ陪役シタリ。其外僕隷七八人、常隊三分一ナリ。是レ僻地ノ人夫ノ痛ミヲ恐ル故ナラン、感服ナリ。夫蝦地ハ沍寒不毛且瘴氛没溺ノ患アリ、是以有志者トイヘ共一タビ其地に渉レバ魂駭キ魄落テ能ク其要領ヲ得ル者ナシ。近歳
廟堂開拓ノ命アリテ先ヅ箱館ニ鎮台ヲ置キ年々其地ヲ巡撫検察セラレケル。僕幸ニ鎮台堀公ニ陪シ此地ニ来レリ。此時ニ及ンデ其形勢ヲ探索セズンバアルベカラズ。故ニ巨細大小見聞ニ従ヒ逐一ニ記シ遺忘ナキヲ要スルナリ。
後此書ヲ見ル者煩ヲ笑フ勿レ。
 
廿五日  朝薄午後快晴 申後又薄陰
一 辰後箱館旅館称名寺ヲ発靱、弁形外 函館町出口 清水屋鉄五郎方ニテ小憩、東折シテ大森浜へ出デ夫ヨリ北鮫川村ヲ過ギ下湯川村ニ至リ名主藤三郎方ニテ小憩、箱館ヨリ是迄一里半余ト云フ。(略)
(廿八日快晴)(略)(エサン山)(略)山麓ニ一局アリ、是官ニテ硫黄ヲ製スル所ニテ当時折角製シ居ル、僕竊ニ上中下ノ硫黄ヲ貰ヒ来ル、其外明磐モ出ル処アル由、僕其所ニ至ラズ、遺憾ナリ。サテ此山麓ハ火山ノ傍ユヘカ大木更ニナシ、女石楠花或ハドウダンノ類ノミナリ。夫ヨリ小憩、北ニ向ヒ半里斗ニシテ険阪乗馬ニテ上下ナラズ、山中左右鬱々見ル所ナシ、右阪ヲ下リ終リテ村アリ、椴法華ト云フ、同所小頭役三次郎方ニテ午飯ヲ喫ス。戸数二十、小村ナレ共鱈鮫或ハ鰯ノ類ヲ漁シ、且昆布ノ名産アリテ宜シキ村ナリ、家々何レモ鱈鮫ヲ干置ク事数百、是ヲ見ルモ愉快。此所ヨリ尾札部村迄陸路ナシ、舟路三里余ト云フ。
下午舟ヲ浮ベ一里斗リ行キ村アリ、古部村ト云フ、此所戸数纔カニ六至テ小村ナリ、官ニテ黄土黄石ヲ掘ラルゝ場所ナリ。暫ク舟ヲ停メ上陸十丁斗リモ山へ登リ見分イタサレケルガ、未ダ掘リ始メト見ヘ、深サ六七尺位ノ穴アルノミ、見ルニ足ラザル程ナリ、右ヨリ掘出シタルトテ傍ラニ少々黄土ヲ積置キタリ、等品如何アルベシヤ、僕此等ノ事ニ暗シ、唯試ノタメ一塊ヲ持来ル。又此海澨ニ折々赤石アリ、珍シキユヘ衆皆拾ヒ取リシガ、案内者来リ示スニ海中ニ突出シタル凹凸ノ石彼ニアリ、此石際ニハ赤石余多ナリトテ早速小舟ヲ艤シタリ。鎮台始メ陪従ノ面々大ニ喜ビ即チ右小舟ニ乗リ其所ニ至リ見レバ黒石截然トシテ或高ク或低ク断ヘテハ又連リ波浪其石隙ヲ往来一歩モ足ヲ入ルゝ所ナシ、况ヤ赤石ヲ尋ルニ暇アラン。是ニ於テ僕導者ニ向ヒ云ヒケルニ、カゝル険石一歩モ行ク能ハズ、何ノ赤石アラン、導者答テ申ヨウ、石際波浪ノ往来スル処へ下ルベシ、我先ヅ下ラントテ凸ナル処へ手ヲカケ凹ナル処へ足ヲ入レ忽チ下リ一赤石ヲ持チ来ル、衆皆喜ビ右険ヲ犯シテ下リケルガ、石際往々赤石ノ節アリ、是ヲ砕ケバ奇形ノ赤石出ル各七八、或ハ四五ヲ砕キ得タリ、即チ前途険石ヲ渡リ漸ク彼ノ小舟へ乗リ上陸セズ、前〓ニ乗リ来リシ舟ヘゾ移リタリ。右へ陪従セシ者調役三田喜六、金銭山掛リ仁杉鋋三郎、下役栗原十兵エ、御家来ニハ僕一人ナリ。夫ヨリ出帆キナヲシ村ポンキナヲシ村ケンニチ村ノ沖ヲ過ギ尾札部村ニ至ル、同所統取役與五左エ門方へ投宿ス。戸数二十五六、椴法華村同様ノ生産ニテ可ナリノ村也。サテ椴法華村ヨリノ海路風波静ニシテ陸路モ同様ナリ、左ハ断巌絶壁草樹蓊薈或ハ竜蟠虎踞ノ巨石海澨ニ斗出シ或陰石陽石相対シ見ル者大ニ笑フ。是ヲ過ギ布瀑ノ景壁立千仭之高ヨリ直迸スルモアリ、或半バ急、半バ緩、或ハ玉トナリテ砕ケ、或ハ沫トナリ、烟トナリ、消散スルモアリ、種々ノ風景応接ニ暇ナシ、右ハ渺々タル滄海天際ナシ、是ヲ見テ旅中ノ鬱滞倐忽氷解イタシケリ。此宿所ニテ海上御安着トテ酒肴ヲ献ズ、余波僕等ニ及ビ少シク疲労ヲ愈ス 仁杉鋋三郎献上ノ由ナリ
 
    廿九日  終日雲霧
一 下辰発ス。十丁斗西南ノ方へ戻リ沢アリ、ヤキノ沢ト云フ、此所官ニテ燧石ヲ摂ラルゝ場所ナリ。是又 掘リ初メト見へ纔一二間ノ掘り跡アルノミ、児童ノ戯モ同様、何ノ益ニハナルマジ、石性モ可ナリニ宜シク力ヲ尽シナバ随分益ニモナルべケレド、僻地人少ナク中々官ノ御世話ヲモ届カザルベシ歎息ト云ベシ。燧石一二ヲ拾ヒ来ル、夫ヨリ前道ヲ踏ミ尾札部ヲ過ぎ、一里余ニシテ川汲ニ至ル。同所小頭役重兵エ方ニテ小憩、夫ヨリシテ同村精進川ノ鉛山ヲ一見ス。此礦ハ官ノ取リ立テニテハナシ。松前領ノ節ヨリ箱館町納豆屋喜左エ門ト申者願ノ上取リカゝリタリシガ未ダ見込ノ所迄掘リ至ザルニ、多分ノ費へ中ニ続キ兼テ当時半バニシテ休ミ居ル、功一貫ヲカキ実ニ残念ナリ。サテ此所へ来ル間平原アリ、海岸ヨリ一丁斗高ク、東南山ヲ扣(ひかえ)へ西北開濶ナレ共折リニハ林モアリテ大畧十丁余ノ広原ナリ、水田ハ迚モ開ケマジ、畠ハ多分開ケベシ、尤地味宜シク諸草繁蕪イタシ居ルヲ見テ知ラルゝナリ。右見分終リテ又々川汲村へ引キ戻シ小頭宅ニテ午飯ヲ喫ス。戸数廿七八、且漁業盛ンニシテ尾札部村同等ノ村ナリ。夫ヨリ半里斗ニシテ滝沢金山ニ至ル。去歳夏中ヨリ官ニテ取リ立テラレタル場所ナリシガ、未ダ見込ノ所迄ハ掘リ至ラズ、纔ニ二十五間程モ掘タルベシ、鎮台初メ陪従ノ面々炬ヲ燃シテ其穴ニ入リ一見セシニ掘子ノ者能ク稼ギ居ル、是又鎮台見分ユヘナラン、右穴ヨリ出デ局内ニテ金ノ取方ヲ一見シタリ。婦人両人ニテ砕キタル鉱石ヲ又石臼ニテ細カニ摺リ砕キ板へ上ゲ幾遍モ水ニテ沙汰シ或ハ小椀ニテ沙汰スルモアリ、当時八十貫目位ノ礦石ヨリ一分程ノ金ヲトルト云フ。僕其情ヲ察スルニ今日鎮台見分ユヘ前日ヨリ取リ調べ置キタルヤモ知レズ、ナゼト申セバ右掛リノ役人益田鷹之助ノ周旋且婦人ノ仕方甚ダ疑シキナリ、今之ヲ云ハズ。夫ヨリ十丁斗ニシテ湯元ト云フ所ニ至ル、此所ニ官ヨリ建テラレタル局アリ、即チ茲ニ投宿ス。局ヨリ一丁程行キテ温泉アリ、上昇ノ症ニ妙ナル由、鎮台始メ何レモ浴ス、不熱不冷ニシテ中ヲ得タリ。男女同浴雑遽ヲ極ム。此局ニテ益田鷹之助鉛銀吹分ケヲイタシタルヲ一見セシニ、先ヅ極細ノ灰ノ上ヘ右鉛ヲ上ゲ炭火ヲ積ミ置キ索籥ヲ亟々鼓動スレバ鉛ハ忽消鑠シテ一宇灰中ヘシミ込ミ、残ル所銀ナリ。今日百九十貫目ノ鉛ヲ吹キ分ケ纔ニ一分弱ノ銀ヲ得タリ。此ニ又疑シキ事アリ、右吹キ分ケノ節度々吹直シ其間二時斗リ、鎮台初メ何レモ一見セシガ退屈ニ堪ズシテ一先ヅ其場ヲ引取リケル、其跡暫時ノ間吹キ分ケタリトテ申出タリ、其所為誰アリテ疑ハザル者ナシ、奸吏大ニ畏ルベシ。
 
    五月朔日  終日風雨
一 晨起雨具ヲ用意シ辰後発ス。半里斗リニシテ左折十丁斗行キ盛山銅山ヲ一見シタリ。是又見込ノ所迄掘リ至ラズ、纔ニ十六七間、一塊ノ銅鉱ヲ見ズ。夫ヨリ前道へ戻リ十二三丁ニシテ険阪アリ、川汲ト云フ、屈曲万回且大沢ノ傍一歩誤テハ其中ニ陥ルベシ、風雨泥濘滑々トシテ一足進メバ一足ハ退キ、極悪路ト云ヘシ、登降都テ二里ト云フ、僕歩行ユヘ三四度モ倒レ満身泥ニ塗レ疲労甚ダシ。漸ク右険ヲ過ギ砥石山アリ、官ニテ一局ヲ建テラレ砥石ヲトラルゝ僕一見セシガ石性可ナリニ宜シ、一片石ヲ持シ来ル。是ヨリ平路ナレ共此泥濘ノ滑々タル事同然ナリ。一里斗ニシテ村アリ、野田部ト云フ、此所ニテ午飯ヲ喫ス。戸唯一ノミ、寂寥ヲ極メタリ。僕其主人久五郎ニ問フ、幾年前ヨリ此處ニ住シタルヤ、且何ヲ以テ生産トイタシ居ルヤト云ヘバ、主人対テ云ヨウ私共秋田出生ナリシガ、三十年前此地へ来リ遂此山中ニ住シ炭薪ヲ売リ生産トイタシ居ル、始メハ山中一人ノ訪モノモナク寂寥に堪ザリシガ、只今ニ至リテハ其地ニ馴レ且知人モ多クナリ、却テ里ニ勝ル程ナリト云フ。四面皆山只鹿豕ト交ルノミ、実ニ幽栖ノト云フベシ。是ヨリ又々険阪、前阪ニ比スレバ稍安カルベシ、僕野田部ヨリ乗馬ナリ、右険阪馬ニ導カレ無難ニテ登降シタルコソ愉快ナリ。漸ク此険ヲ過ギ山上平原ノ所ニ至ル、渺茫二十丁余モアルベシ、地性赤〓ナリ。夫ヨリ上湯川村ニ至ル、野田部ヨリ二里半余ト云フ、同所名主久右エ門方ニ晩飯ヲ喫ス、時既ニ申後ナリ。サテ此村ハ松倉川傍ニシテ畠大ニ開ケ居リ専ラ大小豆粟稗ヲ植エル由、僕山上ヨリ遠望セシニ風雨分明ナラネ共此川上広キ所アリテ水田トナルベキ所往々ナリ、今空シク荒土トナリ居ルコソ残念ナリ。官ニテ開拓ノ命屡々下レ共人民ノ鮮キコソ如何スベキ、俗吏ノ僻速功ヲ求メ一人ニ万業ヲ兼ネサセント、或ハ農或ハ蠶種々口弁ヲ以テテコソ愚ト云フベシ、却テ民心ヲ失ウノ端ナリ、少シハ蠶酌アルベキナリ、若シ農蠶盛ンニセントナラバ其職ニ達シタル者内地ヨリ移シ其職業ニ付カセナバ傍人自然其業ヲ見傚フベシ、強ヒテ斯ク諭ストモ中々容易ノ事ニハアルマジ非分ノ感慨笑フベシ。半里斗行キテ下湯川村ニ至ル、其間松倉川アリ、橋アレ共小橋ニテ馬行ナラズ、僕乗馬ユヘ水行鞭ヲ揮フテ渉リケリ。同所名主小平治方ニテ小憩、今日鎮台箱館着ニ付キ此所ニテ衣服ヲ改シガ、雨中荷物ノ混雑人馬ノ狼狽困リ切タリ。是ヨリ僕先番トナリ馬ニ鞭シテ駆シガ、三丁余モ来レバ頻ニ僕ヲ呼ブモノアリ、何故ナラント首ヲ回セバ中小性森深蔵ナリ、下湯川村ニテ茶料ヲ遣ザル由、定テ遣忘シタルナラン、鎮台ノ命ナリ、是ヨリ引キ返シ遣サルベシト声高ラニ申シタリ。僕大ニ驚キサアラバ引返スベシト馬ヲ走シケレバ又々跡ヨリ声ヲカクル者アリ、是へ拘リナハ遅滞ニ及ブベシト思へ、聞ヘザル風ニシテ巳ニ下湯川橋下迄駆ケ付タリ、然ルニ頻リニ声ヲカケ止ザリシユヘ是ハ何事ナラント又後ヲ顧レバ仁杉鋋三郎ナリ、鎮台ノ命ナリ、何事カ其子細ハ知ラネ共引返シ先番ヲ勤ムベシトノ事ナリ。僕思フヨウ纔ニイタシ引返スハ残念ナレド茶料ハ近在ノ事追々ニテモ送ラルベシ、万一先番ノ首尾合ハズバ今日ノ差支トナル、彼是斟酌ノ上又々鞭ヲ加へ引返シ神速飛ガ如クニ駆タリシガ暫時ノ間(而)鎮台ノ先キトナリ、夫ヨリ十丁余ニシテ馬甚ダ疲労如何程鞭ヲ加ヘント少シモ進マズ、彼是間取リナバ先番ノ首尾調ベカヌルベシト色々気ヲ操シガ、又後ヨリ声ヲカケ馬ヲ走ラス来ル者アリ、能ク見レバ前ノ仁杉鋋三郎ナリ、僕申ヨウ駑馬甚ダ難澁ナリ、後ヨリ鞭ヲ加へ給ヘト頼ミシガ鋋三郎合点シタリト一鞭ヲ強ク加ヘケレバ駑馬ナレ共大ニ憤リ一足飛ニナリテ駆タリケル、僕落ントセシ事度々ナリ、僥倖ニシテ無難暫時ノ間桝形清水屋鉄五郎方ニ至ル。此処ニ御迎ノ面々給人井川儀左エ門、中小性畠山万吉、手塚源蔵待居タリ。先番ノ首尾夫々調べ置タリシガ、間モナク 鎮台モ至ラレケル。直々箱館旅館ヘゾ帰ラレケル、時ニ黄昏過ナリ。川汲湯元ヨリ是迄八里余ト云フ。
  五月七日五月七日ヨリ同月十二日迄日数六日ノ間南キコナイ北イクサ川迄御廻村コレアリ、陪属ノ者御支配調役鈴木尚太郎、下役坪内幾之進、御家来ニハ給人前野三左エ門、中小性手塚源蔵、森深蔵、田中良平、近習ニハ僕一人ナリ、其外僕隷六七人ナリ、途上ノ所見ニ記ス。(略)
    (北海道郷土研究資料第十三 玉虫義著「入北記」昭三九 井黒弥太郎)