海面は最終氷期以降は急速に上昇し、約九〇〇〇年前には現海面下三〇~四〇メートルまで上昇していたと考えられている。この海水面の上昇により、五所川原礫層の上位には「十三湖層」が三〇~四〇メートルの厚さで堆積している。十三湖層は砂やシルトを主体とする軟弱な堆積物(N値(9)一〇未満)であり、最終氷期以降の海面上昇による沈水過程(10)での堆積物であって、平野下のV字状の古岩木川を埋積している。なお、中里町芦野(あしの)における地下三九メートルからのボーリング試料(泥炭層)による年代測定では、約九〇〇〇年前(九〇五〇±二五〇年前)の数値が得られているが、この泥炭層は十三湖層下部にあって、V字状の古岩木川の谷底堆積物と考えられる(牛島ほか、一九六二)。
約六〇〇〇年前の後氷期(11)最大海進(縄文海進)時には海面がさらに上昇し、現海水面よりは少なくとも二~三メートルは高く、温暖で湿潤な気候であったといわれる。木造町菰槌(こもつち)での地表下一・五メートルの砂層中に包含される貝化石から、六六五〇±一一五年前の年代測定値が得られている。この時の汀線(ていせん)が五所川原北部と木造を結ぶ線まで達し、大きく湾入した潟湖(古十三湖)が形成されていたと考えられる(海津、一九九四)。そして、縄文海進以降の海退期には、潟湖が次第に埋積されていくが、現在の平野北部に位置する十三湖および田光沼がその名残を示している(図6)。またこの海退期には、蛇行する岩木川の氾濫によって平野中央部が自然堤防と後背湿地とからなる氾濫原の環境へと変化し、板柳町幡龍(ばんりゅう)橋および鶴田町鶴寿(かくじゅ)橋下の岩木川河床で確認された埋没樹がそのことを物語っている(写真4)。幡龍橋下での樹種同定の結果では、ヤチダモを主体とする冷温帯性の河辺林あるいは湿地林であったと推定され(辻ほか、一九九〇)、鶴寿橋下での埋没樹からは二二四〇±九〇年、二四八〇±八五年前の年代測定値が得られていることから、「弥生の小海退」時に氾濫原内に形成されていたと考えられる。
図6 津軽平野における古地理の変遷図
(海津,1994より転載)
写真4 岩木川河床にみられる埋没樹(鶴田町鶴寿橋付近)
(左:遠景、右:露出状況)