写真3 丹後平墳墓群
これに対し、津軽地方では尾上町原(はら)墳墓群(写真4)が知られている。原墳墓群は一九七三年、耕作中に偶然蕨手刀(わらびてとう)が出土(図6-3)したことから、その存在が予想されていた。一九八八年の発掘調査では、周溝をもつ遺構が三基検出されており、一号墳と二号墳の周溝には一〇世紀第一ないし第二四半期の降灰とされる白頭山(はくとうさん)-苫小牧火山灰の堆積が認められた。同遺跡では、七世紀後半~八世紀前半と推定される竪穴住居跡が一軒検出されており、墳墓群も同時期の所産とされている(図3)。遺構外の出土ではあるが、八世紀前半に流通の最盛をみた静岡県湖西(こさい)地方産の須恵器と同質の胎土をもつ須恵器が出土していることも、年代推定の傍証となるであろう。丹後平墳墓群でも湖西窯跡群の八世紀第1四半期に比定される長頸壺が出土している。さらに、一九九〇年の発掘調査では九基の古墳が確認されており、八戸市丹後平墳墓群や下田町阿光坊墳墓群をしのぐ規模の遺跡である可能性が高いと推定されている。四号墳と五号墳では盛土が検出され(図4)、五号墳と六号墳の周溝内からはガラス製丸玉・須恵器横瓶・高台付坏・長頸壺・土師器坏・甕などが出土し(図5)、二回にわたる発掘調査の結果から、墳墓造営の年代は七世紀後半~八世紀後半にかけての年代幅が考えられる。ただ、この年代は日本史上ではほぼ奈良時代に相当する時代であり、そしてまた、平安時代の青森県内では円形周溝墓というほぼ同一規模の墳墓が造られていることなども考慮すると、さきの被葬者の問題も合わせて、東北地方北部の群集墳を終末期古墳に含めて扱うことには問題があるだろう。
写真4 原墳墓群
図3 原墳墓群遺構配置図
図4 原墳墓群の構造
図5 原墳墓群出土の遺物
図6 津軽地方出土の蕨手刀
このほか一八九四年、弘前市大字門外(かどけ)において、奥羽本線鉄道敷設工事中に蕨手刀が発見されている(図6-1)。元所蔵者の故大石良郷によれば、「白土による小封土(ふうど)中」からの出土とされており、群集墳が存在した可能性も考えられる。また出土地は不明であるが、弘前市熊野奥照神社には宝物として伝世されてきた蕨手刀がある(図6-2)。
津軽地方では、群集墳に埋葬されているものと同類の勾玉が田舎館村境森や平賀町大光寺新城遺跡で、銅釧(どうくしろ)(銅製の腕輪)が金木町で出土しており、津軽地方でも拠点的に太平洋側に匹敵する群集墳が存在したと推定される。そして、この群集墳は文献史上律令国家によって「蝦夷(えみし)」と呼ばれた人々の一部が、古墳文化の影響のもとに独自に発達させた墳墓と見なすことができる。
七・八世紀代の県東側では、八戸市根城跡第一一〇号住居跡出土の一括土器群が七世紀前半~中葉の所産と考えられ、東北地方南部の古墳時代後期土器に対比されるものとしては最古の良好な例として知られるのに対し、津軽地方ではそれよりも遅れ、七世紀後半~八世紀前半の尾上町李平(すもだい)Ⅱ号遺跡第1号住居跡出土の一括土器群が最も古い例である。