原エミシ文化の形成

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弥生時代から奈良時代に至るまで、青森県内には西日本から受容された文化の影響によって将来された遺物が認められる一方、北海道系の遺物が県内各地にもたらされていた。また、三世紀~六ないし七世紀にかけて人口過疎の傾向は認められるものの、文化の交流地帯となっていたことは確かである。古墳時代前・中期併行期の青森県では、続縄文文化をもった北海道系の人々が南下して居住したと考えられているが、質的には続縄文文化でも古墳文化でもない、両者の要素を合わせ持った独自の混交文化を形成していたといえるであろう。それは、北海道から南下して東北地方北部に定着した人々が、諸物資の流通を図る交易の仲介者として活動していたことを物語っている。さらに、古墳時代後期から奈良時代併行期には、農耕を生業とする集団によって拠点的に集落が形成された。本州の平安時代に併行する時期に、東北地方北部や石狩低地帯を中心とする地域における続縄文・土師器混交文化の担い手たちは、擦文文化の母体を形成し、横走沈線文(おうそうちんせんもん)や鋸歯状沈線文格子目状沈線文の描かれた甕に象徴される擦文土器を生み出したのである。
 津軽地方では、続縄文文化末葉の北大式土器の存在が希薄になるが、北大Ⅰ式土器が太平洋側の農耕文化圏である宮城県下に進出しており、続縄文・土師器混交文化圏の人々が積極的に農耕文化を受容しようとしていたあらわれとみることができよう。石狩低地帯を中心とする地域でも採集・狩猟を基盤とする文化と、農耕を基盤とする文化、この両者の交流によって成立した混交文化圏の介在によって、おそらく北大Ⅱ式の時期には農耕文化の受容態勢が整えられていったと思われる。石狩低地帯における群集墳の出現は、この地帯が東北地方北部とさらに交流の拠点地域として機能していたことを象徴するものといえ、文献では、渡嶋蝦夷は出羽国を介して八世紀初頭から九世紀末葉まで律令国家と交易関係にあり、渡嶋からは毛皮類が、その見返りとしては鉄(製品)がもたらされた。
 相前後して、政治的概念として文献に登場する「蝦夷」の時代の前代を象徴する考古学的概念として、在地の系譜が希薄になる続縄文・土師器混交文化の時代を「原エミシ文化の時代」と呼び、古墳時代後期から奈良時代農耕文化の受容が顕在化する「エミシ文化の時代」と区別したい。なお、津軽地方における平安時代の律令政府による開拓は、前代とは明らかに異なった様相を呈しはじめ、考古学的にも証明することができる。

図 参考;土器型式併行関係(概要)