古墳文化及ばぬ北の世界

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一方、大和政権の影響度の指標である前方後円墳が及ばなかった地域である青森県をはじめ東北北部には、このころ逆に北の世界の北海道特有の文化の影響が目立つようになる。
 たとえば続縄文土器と総称されている、本州に稲作文化が普及し弥生時代に移行したのちもなお、縄文時代同様、狩猟・漁撈・採集などを主たる生業としていた北海道の文化を代表する土器が、これらの地域を中心に、東北地方でも広く見つかるようになってくる。
 とくに後北C1~C2式と呼ばれる北海道の続縄文土器と同じものが、弥生時代の青森県下全域から出土しており、総計二〇箇所以上の遺跡が発見されている。その北海道からの南下のルートとしては、函館の東の汐首(しおくび)岬あたりから、下北半島大間(おおま)崎あるいは尻屋(しりや)崎に入り、八戸を経て岩手県へ下るコース、または渡島(おしま)半島白神(しらがみ)岬あたりから竜飛(たっぴ)崎に入り、さらに岩木川を遡(さかのぼ)って秋田北部へ下っていくコースなどが考えられている。
 こうした事態の背景としては、四世紀ころから始まったとされる小氷河期による気温の低下があったらしい。青森県域は津軽地方を中心に、いち早く弥生文化を受け入れていたのではあるが、県下の稲作はそうした気候の寒冷化によって大きな打撃を受け、このころ稲作の北限は岩手県南部あたりまで後退したともいわれている。
 古墳時代にほぼ併行する時代になると、北の続縄文文化の世界では、後北(こうほく)式に代わって北大(ほくだい)式と呼ばれる土器が広く使われるようになるが、この土器も宮城県北部にまで分布が見られる。
 青森県では、その出土地として、天間林村森ヶ沢(もりがさわ)遺跡(写真20)が注目される。この遺跡では、終戦直後に五世紀後半のものと思われる須恵器(すえき)が出土していたが、近年の発掘調査によって、北海道の続縄文文化の系統に属する五世紀の土壙墓(どこうぼ)であることが明らかになった。琥珀(こはく)の玉類もまとまって出土しているが、これも続縄文文化における玉の伝統を受け継ぐものといわれている。秋田県能代市の寒川(さむかわ)Ⅱ遺跡では、さらに古い後北式C2土器を伴う土壙墓が発見されており、続縄文文化は、かなりの密度で北東北を覆っていたらしい。

写真20 森ヶ沢遺跡全景

 ただし南からの文化が断絶していたわけではない。森ケ沢遺跡から同時に出土した須恵器は典型的な古墳文化遺物であるし、同じくそこから出土した玉のなかにはガラス玉や石製平玉があり、これは古墳文化から持ち込んだ装身具である。近年の考古学の成果は、すでに縄文時代から続く活発な南北交流の存在を明らかにしているが、この遺跡も、それを証明する一つとなっている。
 また他にも、三沢市や野辺地町有戸(ありと)、下田町阿光坊(あこうぼう)遺跡(写真21)などから、五~六世紀の祭祀関係の遺物とされる剣型の石製模造品など(南方からの搬入品か)が発見されている。これらはいずれも偶然見つかったものばかりで、量的にも少なく、その背景など詳細については、残念ながらまだ明らかではない。

写真21 阿光坊遺跡9号墳

 いずれにしろ東北地方には稲作の不適地が現在でもなお広がっており、また縄文時代以来の伝統的生活を守り、稲作を好まない人々の住む地帯もあったであろうから、弥生時代の段階からそうした続縄文的な非稲作農耕地域社会が併存していた可能性もあろう。稲作地域にこうした続縄文的な社会が混っている状態を「斑状(まだらじょう)文化」と名づける学者もいる。