次に、外浜(そとがはま)地域についてみてみることにしよう。天正十三年(一五八五)、大浦為信は油川城(あぶらかわじょう)(現青森市)を攻撃し、外浜地域の掌握に着手した(資料古代・中世No.一〇五九~一〇六一)。油川は、交通の大動脈である奥大道の終点であり、また、夷島(えぞがしま)への窓口となるような湊町でもあり、南方・北方それぞれをつなぐ海陸の交通の要衝であった。特に、戦国末期の油川は、海岸線(陸奥湾)に沿って町が成り立っており、そこには、北方への商圏拡大を目指した富裕商人たちが集住していたともいう(工藤弘樹「北の中世港湾都市油川とその時代」、『市史研究あおもり』三)。そして、このころ、後に著された史料に「外浜油川沖口御横目」というように、沖口役銭(おきぐちやくせん)を徴収するような機能が各湊に設置されたことが推測される。寛永元年(一六二四)に青森が成立するまでの外浜支配は、油川を基点としてなされたようである。
さらに、大浦氏は、「高野・荒川両村ニ而知行高五十石被下置」(「相馬安左衛門由緒書抜」国史津)とあるように、荒川村の開発に着手している。高野(こうや)(現岩木町)は、岩木川支流域に位置する。一方、荒川村(現青森市)は、浪岡から青森に抜ける大豆坂(まめさか)街道に位置し、横内(よこうち)・新城(しんじょう)(ともに現青森市)に向かう脇道の分岐点であり、特に、横内は為信の油川城攻略の後に「油川・横内両城共ニ城番ヲ差置レ、外浜筋法令如形ノ御沙汰アリ」(資料古代・中世No.一〇五九)というように、油川とともに城番が設置されており、大浦氏の外浜支配において重要な地であったようである。すなわち、大浦氏にとって外浜東部は、開発と対南部氏という軍事的な備えとが同居する地域であった。また、高野・荒川村にも「狄」の居住域があり、これが「退治」されたことが伝えられる(小友叔雄編『荒川村沿革史』巻一・二 一九三三年)。これについて、具体的なことは不明ではあるが、西浜の場合と同じようにように、高野・荒川両付の開発の際に、ここに居住するアイヌとの間に軋轢(あつれき)が生じたのであろうか。