秀吉は、すでに関白就任直後の天正十三年(一五八五)九月に、日本はいうまでもなく、中国である「唐国(からくに)」(明)までも自分の命令に服させるつもりであると考えていた(一柳文書)。秀吉は、天下統一後の家臣団の激しい領土拡大欲求をそらし、また彼ら家臣相互の内部対立・紛争を避けるために、「唐国」征服を早くから考えていたのである(朝尾直弘『大系日本の歴史 八 天下一統』一九八八年 小学館刊)。
秀吉は天正十五年の九州平定の際、「唐・南蛮(なんばん)」までも平定するつもりであるため、九州はなおさら自己の権力に服さねばならないこと、および九州平定後には朝鮮である「高麗(こうらい)国」に軍隊を派遣させることを主張し、さらに朝鮮と琉球の服属を要求した。また、翌天正十六年四月、豊臣政権の東国政策を担当した奉行富田知信(とみたとものぶ)は、奥州の白川義親(しらかわよしちか)に宛てた書状で、九州平定により中国の平定がすでに目前であると述べ、さらに秀吉が「関東(かんとう)・奥両国惣無事令(おくりょうごくそうぶじれい)」を出したため、その命に服すよう伝えた。秀吉は、惣無事令により奥羽の地に至るまで天下統一を実現させ、さらに中国侵略のために朝鮮と琉球をその先導役にしようと考えていたのである。
惣無事令によって一切の私戦がなくなり、すべての兵が公権力(公儀)の軍隊に編成された後に大陸侵略が実現できるのであり、秀吉が日本のすべての大名を軍事動員できるかどうか、それを試す絶好の機会でもあった。また、八月二十一日、秀吉は「身分統制令」を発布して兵農分離の方針を徹底させ、ことに侍・中間(ちゅうげん)・あらし子などの武家奉公人が町人・百姓になることを厳禁して兵員の確保に努めていた。さらに、右の朱印状では、前年の天正十八年七月の仕置以後の新たな身分変更を厳禁しており、秀吉は奥羽・日の本仕置によって奥州・「日の本」に至る全国土を支配下に置いた時点で、すべての身分の固定化を図り、明征服のための兵力を確保しようと画策していたのである。惣無事令と大陸侵略は、秀吉が関白に就任した直後からともに切り離すことができない豊臣政権の最重要政策であり続けた。