地方支配機構の確立

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前期の津軽弘前藩地方支配の体制は、代官がその要となっていた(以下は、浪川前掲「前期農政の基調と展開」による)。寛文四年(一六六四)の時点では、一五の「(けん)」が存在し、これが代官支配の行政地であったことがわかる。また、寛文十二年(一六七二)までに一五から二二にが増加していたこと(寛文六年までには二二となっており、同十二年に一五に戻した)、代官は一つのに二人ずつ任命されたことを知ることができる(「国日記」寛文六年九月四日条・寛文十二年八月十二日条)。その後、延宝四年(一六七六)に下の切遣から四ヵ村が分離し、五所川原遣が成立して一六となった(「平山日記」)。前期の行政区は、基本的には一五ないし一六のからなっていたことがわかる。しかし、領内のすべてがに含められ、行政区画化されていたわけではなかったようである。には、代官所が置かれ、一に二人ずつ任命された代官のうち、一人がその任地、一人が弘前で職務に当たっていた。
 行政区画としてのは、実質的には貞享四年(一六八七)五月初旬まで継続している。ただし、貞享二年(一六八五)以降はではなく主に「支配」と呼ばれ、貞享四年四月からは「組(くみ)」と呼ばれた。ただし、この時の「組」は、貞享検地に伴って成立した「二十五組」とは別のものと考えられる。一方、同年五月には逆に「二十五組」に特有の「赤田組」が初出し(「国日記」貞享四年五月十一日条)、実質的にはこの間に一六から二五組へという地方支配(行政組織)の変更・再編が行われたと考えられる。
 代官所の機は、無縁手代(むえんてだい)一八人・同小(こづかい)二四人・同三口一五人、別に御百姓手代二九人・同小四人・同三口二二人となっており、これらのごとの人数・職務の具体的な内容については不であるが、いずれも農民から選ばれていた。また、代官が前期農政の上(うえ)で特色づけられるのは、その在地性である。代官の任期は長く、固定的な役職であったと思われる。また、主に知行地新田開発地に与えられる新参家臣を中心に編成されていた。したがって、彼らは、本来は前期一般にみられる小知行など、新田開発の中核となっている極めて在地性の強い階層にその出自があった。そして、一般的には一〇〇石以下の小身のものであった。
 前期の新田開発では、小知行は三〇から一〇〇石以下の知行高であるにもかかわらず、普請にかかる労働力を自らの出銀(日傭銀)で賄っていた。これは、在地土豪としての経営と知行地への支配権によって支えられていたことにより可能であったと思われる。前期の代官が、その任期が長く固定的な役職であったのは、このようなことによって裏打ちされていたのであった。しかし、貞享末年から元禄初年にかけて、これら小身の代官が存立しえなくなっていたことが、貞享検地以後の課題の一つとして認識されていた。こうした状況になった最大の理由は、地方制から蔵米制という知行制の変換にあった。蔵米制下の代官は、代官支配地を替えられることによって在地性を失い、地方役人としての性格が強くなった。そのため、蔵米取としての知行高の中でしか、自身の再生産と、その職務の遂行を果たしえなくなっていたのであった。