信寿の高増運動

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江戸時代の武士の世界ではそれぞれの家の有する家格が大きな意味を持っていた。大名の社会でも、領地の石高将軍家との親疎などの要素から家格が決定され、これらの要素の外に、大名が叙任される官位や、江戸城内での殿席(でんせき)(詰の間と控の間の区別)、行列に持参することを許される行装(長や長柄の槍、挟箱の金紋の有無ほか)の違いなどによってそれが表現された。これらの表現の形式もやがてその家の持つ家格として固定化していく。官位の叙任状況の観点からみると、おおよそ寛文・延宝期ころまでに家格が成立するという。そういった家格めるために、大名たちはさまざまな運動を展開していく。
 津軽弘前藩では高増願(たかましねがい)を享保八年(一七二三)に行っていた。それを裏付けるものが、国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書の中に残されている。それらは、①卯七月の「津軽土佐守内存口上覚」、②卯七月二十一日付の「覚」、③卯九月の「覚」という三点の書付からなる。これらの文書に記された卯年は享保八年に比定される(浪川前掲「藩政の展開と国家意識の形成―津軽藩における異民族支配と『北狄の押へ』論―」。なお、享保八年の高増運動についての記述は多くを氏の所説によっている)。
 これら三点の史料の目的は、高増の実現のため、幕藩体制のなかに当藩の積極的な位置づけを図るとともに、高増の理由を論証することにあった。その理由づけで強調されている点は、第一に津軽領内での内の多さ、第二に将軍家との関係の深さ、第三に「狄地(えぞち)の押へ」という津軽弘前藩の位置づけである。第三の点については、編纂史料以外で初めて、いわゆる「北狄(ほくてき)の押へ」論を主張する史料であって、政治的上昇=加増を合理化する根拠として展開されているのである。この折の願い出は幕府から不適当として願書を返却された。
 しかし、享保十年(一七二五)に信寿は再度高増の願書を提出している(「諸事留」国立公文書館蔵)。この時の願い出に当たり津軽家が強力な後ろ盾としたのが、「一位様」こと、六代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)夫人天英院(てんえいいん)である。彼女は当時の将軍徳川吉宗の擁立にも一役買ったとされ、吉宗が一目置かざるをえない存在だったと思われる。また、彼女は近衛基煕(このえもとひろ)の娘であることから、近衛家宗家と仰ぐ津軽家には有力な後ろ盾となるはずであった。確実な史料は存在しないが、津軽家近衛家を通じて天英院に高増願い出の意向を伝え、尽力を願ったと思われる。結果として、彼女は津軽家高増を実現させるようにという「御内意」を示している。

図113.高増に関する信寿の内存を記した書付

 しかし幕府は津軽家高増願を認めなかった。津軽家の願意を認めれば、今後津軽家と同様の理由で諸藩の願い出が出されることが予想され、一々それに対処しきれないこと、さらに信寿が相続以来元の領知のままだったことが、いずれ支障のもととなることなどから、津軽家の願意は認められなかったようである(『内閣文庫所蔵史籍叢刊 八六 諸事留(二)』一九八八年 汲古書院刊)。