農村部での騒動

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これらはいずれも町での騒動であるが、藩主の膝元の弘前では直接的な騒動は起こっていない。しかし、内陸の農村部では七月二十七日に木造新田など二八ヵ村の者が徒党を組み、貯米の返却と年貢強化策として制度化された「芦萱銀」(芦萱の利用にかける税)の撤廃を求めて、弘前城下まで押しかける騒動があった。これも組織化されたもので、広須・木造新田へ結集を呼びかけ、不参加の村には「後日難儀」があるという回状が回ったという(『天明卯辰日記』)。騒動に参加した者は約一〇〇〇人で、弘前郊外の石ノ渡の川原で、郡奉行三上理左衛門・勘定奉行石郷岡徳左衛門らと対峙(たいじ)した。この騒ぎに家中の者や町方の者が見物に押し寄せ、大混乱になったという(資料近世2No.五四)。

図129.木造新田の者たちが町奉行と対峙した石渡川原

 「貯米」は元来、飢饉対策として安永期から制度化していたもので、一反歩につき米二升の割合で上納させていた。藩はこれに二割の利息を付けて貸し出し運用を図ったものの、実際は江戸藩邸の経費などに充当され、当時で三分の一程度の在庫しかなくなっていた。せっかくの飢饉対策の貯米が実際には年貢同様の扱いになり、本来の役割を果たさなかったのである。このことに農民の不満が爆発し、町の廻米強化に対する批判と呼応するかのように、藩の政策を鋭く批判することとなった。
 この騒動も首謀者五人が捕らえられたが、九月二十九日に至り、藩は貯米の上納の廃止、貯米の分割返却、翌年までの芦萱銀(あしかやぎん)の上納免除と、農民の要求をほぼ認める沙汰を出した(資料近世2No.五六)。飢饉の被害がらかになり他領への逃散が発生している状況下において、藩も農民の要求を無視するわけにいかなくなったのである。