図129.木造新田の者たちが町奉行と対峙した石渡川原
「貯米」は元来、飢饉対策として安永期から制度化していたもので、一反歩につき米二升の割合で上納させていた。藩はこれに二割の利息を付けて貸し出し運用を図ったものの、実際は江戸藩邸の経費などに充当され、当時で三分の一程度の在庫しかなくなっていた。せっかくの飢饉対策の貯米が実際には年貢同様の扱いになり、本来の役割を果たさなかったのである。このことに農民の不満が爆発し、湊町の廻米強化に対する批判と呼応するかのように、藩の政策を鋭く批判することとなった。
この騒動も首謀者五人が捕らえられたが、九月二十九日に至り、藩は貯米の上納の廃止、貯米の分割返却、翌年までの芦萱銀(あしかやぎん)の上納免除と、農民の要求をほぼ認める沙汰を出した(資料近世2No.五六)。飢饉の被害が明らかになり他領への逃散が発生している状況下において、藩も農民の要求を無視するわけにいかなくなったのである。