膨大な借金財政からの脱却を目指す経済政策を実施するに当たっては、まず財政状況の把握を正確に行うことが必要であった。すでに触れたところではあるが、宝暦三年十月十日の家中俸禄調査(資料近世1No.八九七)、同四年一月の反別帳(たんべつちょう)・貞享検地帳等の回収による帳簿上の生産力の把握(同前No.九〇一)、同年閏二月の実生産力把握のための田畑調査の下命(同前No.九〇九)などがそれであった。
また同四年からは、藩からの藩士の借用分や上納金の未納分についての整理を行い、諸政策推進に当たって、各藩士が共通のスタートラインに立てるようにしている(同前No.九〇〇・九二一)。この措置は、同五年の大凶作を経て、翌六年からの知行蔵入り(蔵米知行制)へと展開している。同五年九月九日、家中一同は次のような申し出を行った。今年の凶作を乗り切るためには、藩の蔵から農工商の扶助を行い、家中については出来高にかかわらずすべての知行米を蔵納めし、切米取(きりまいどり)への支給米も含めて、甲乙なく平等に支給してもらいたい、という申し出である(資料近世2No.三六)。藩士が自らの取り分を藩庫に納め、それによって三民扶助を行ってもらいたいというものであるが、裏を返せば、知行取(ちぎょうどり)層が結束することによって、一部の知行取が困窮することを防ぎ、また知行取層の困窮を切米取層を抱き込んだ形で拡散し、その困窮度を軽減させるものであった。藩はこの申し出を受ける形で、翌年から知行の蔵入りを実施し、それに伴い、藩は知行取・切米取に対するこれまでの借金と上納金の延納分については帳消しとした。そして、その上で蔵米を俸禄に応じて全額支給した。つまりこの段階で藩士は通常の収入を得られることになったのであり、藩士たちは、分限に応じた生活をするように厳しく申し付けられている(資料近世1No.九三六)。
このような知行の蔵入りは、知行の借り上げの延長線上にとらえられるのであるが、このときの蔵入りと借金の帳消しは、宝暦改革という大枠の中でみるとき、「標符(ひょうふ)」政策の一環としても位置付けることができる。詳しくは後述するが、藩士への蔵米支給が「標符」によってなされたことからも知られるところである。
さて、以上のような財政状況の把握と整理の上で経済政策が推進されていくことになるが、その政策は、商人の活用と領内通貨改革を中心とした政策と、「標符」の発行を中心とした政策に大きく分けられる。いずれも貨幣経済の進展によって台頭してきた商人を政策の中に取り込んだ経済統制策であるが、藩の介入度および方法において大きな違いがある。その違いをもたらした要因はやはり宝暦五年(一七五五)の大凶作であった。そして機構的には大凶作への対応を背景として乳井貢が「元司職(もとししょく)」に任命され、改革推進のための権力を一手に掌握したことであった。