戸口と住民構成

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江戸時代前期における弘前城下の人口や住民成は、武家人口についての記録がなくはっきりしたことはわからない。正保城絵図の下図と思われる寛永末年の「津軽弘前城之絵図」(弘前市立博物館蔵)によれば、城下武家屋敷(下級武士である徒(かち)衆を含む)の数は五二八軒であるのに対して、町家は約一一三〇軒で、武家と町家の比率が一対二になっている。元禄年間(一六八八~一七〇三)の「松井四郎兵衛留書(とめがき)」(資料近世1No.一一五〇)には、元禄三年(一六九〇)の「諸事覚」があり、それによれば町方の総家数は借家を合わせて二七九五軒で人口は一万五八九〇人であった。同五年(一六九二)の「覚」では三〇〇四軒、一万六五五九人、同七年(一六九四)の「切支丹改」では、三二三三軒、一万七三六三人となっている。この時期の町方人口は、およそ一万六〇〇〇人から一万七〇〇〇人であったと推定される。
 江戸時代後期における弘前城下の人口と住民成は、明和年間(一七六四~一七七一)ころに作成されたと思われる「藩律」(弘図八)によれば、武家人口が一万四六〇〇人余で、商家(町人を指す)は一万六〇〇〇人余であった。このほか、寺院九一宇、三宇、社家二五戸、修験(しゅげん)一一戸、祠堂(しどう)(寺で檀家の位牌を祀る堂)二八宇、瞽(ごぜ)(盲目の門付芸人)一〇〇人余であった。この時期、弘前城下には三万人以上の人々が住んでいたことは間違いない。現在と比べると寺院数が多いのが目につく。
 少し時期が下ると、天保八年(一八三七)の「御家中御目見得(おめみえ)已上人別戸数調之覚」(「御定法古格」弘図八)では、武家は御目見得以上・以下を合わせて二万一〇〇四人、町人は一万四五四〇人、寺堂は三一一人、修験が三四人、社家が一一七人、座頭が三〇人であった。幕末期の元治元年(一八六四)八月の「弘前町中人別戸数諸工諸家業総括牒(ちょう)」(資料近世2No.一九六)では、町方の人数は一万五五六三人となっており、武家人口は不明であるが、天保期から幕末期にかけての弘前城下の人口は三万五〇〇〇人から三万六〇〇〇人はあったものと考えられる。