こうして、租税署は明治四年四月二十二日に「田方御分与并在着規則」をまとめたが(資料近世2No.六〇四)、これが帰田法における配賦方針の基幹となった。条項が多いので左に主要なものを整理して、内容を考察しよう。
図74.田方御分与并在着規則
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これらをみると、第一にわかることは計画の一層の縮小化である。たとえば①、家禄一五俵以下の者にも分与地を与えるとしていたのが、ここではわずかに一時金を与えるだけで、帰田法からは除外されている。彼らに渡った米は一〇俵から五俵、金一〇両から三両程度に過ぎず(『弘前藩記事』明治四年八月十二日条)、すぐに生活に行き詰まったことは容易に想像できる。
第二に、②をみると、耕地ランクが落とされており、たとえ面積が同じでも、明治三年十月段階での構想と、同四年四月段階での現実が食い違っていることがわかる。つまり、士族らには地味の悪い田地が配賦されることになったのであり、その原因は当局が土地の集積を急ぐあまり、下田・下々田でもその対象としたためであろうし、地主らが意図的に良い田を手元に留保(りゅうほ)した結果でもある。
それでも、この段階で藩はまだ帰田法の本来的意義である士族の帰農という目的を放棄したわけではなかった。⑥で小作権の保護と農村慣行の遵守(じゅんしゅ)を挙げているのは、在方に移住した後、士族らが農民と円滑な生活を送れることを配慮したためである。また、⑩で移住しないうちに地主の取り分を享受(きょうじゅ)することを否定しているのは、まさに士族の不在地主化を防ぐためであった。
こうして、明治四年四月二十二日には分与地の抽籤が行われ、同二十四日には分与地の買い上げ・献納に応じた者を弘前城に招き、藩知事承昭(つぐあきら)臨席のもと、褒賞(ほうしょう)品と酒肴(しゅこう)が下賜(かし)された。帰田法はいよいよ実施するばかりとなったのである。